
銭形平次捕物控 金色の処女
野村胡堂

約12分・38ページ
慶長十七年、関門海峡の小島・船島。「鬼」と呼ばれた岩流の佐々木小次郎に、宮本武蔵が試合を挑む。朝寝をし、櫂を削った木刀を手に遅れて現れた武蔵の真意とは。直木三十五が逸話をまじえて語る巌流島の一戦を漫画化。
最後まで内容を紹介しています
慶長十七年、宮本武蔵は小倉の長岡佐渡を通じて細川家の師範役・佐々木小次郎との試合を願い、四月十三日、船島での立ち合いが決まる。武蔵は前夜に姿を消し、下の関の船問屋で朝寝をしてから櫂を削った木刀で遅れて渡る。鞘を捨てた小次郎を「その方の負け」と笑い、互いの気合で小次郎は倒れ、武蔵の鉢巻が切れて落ちた。武蔵は息を確かめて一礼し、舟で去る。のちの批評と逸話が語られ、武蔵は熊本で世を去る。
東国の飯篠長威斎と並び称された西の名人・富田勢源は、小太刀の達人で、美濃では薪一本で梅津某を一撃で破った。同じ越前の佐々木小次郎は幼いころから勢源に学んで大太刀を好み、勢源の弟・治部右衛門を打ち込んで、十六歳で岩流を開くことを許された。
諸国を巡った小次郎は豊前小倉で細川三斎忠興に抱えられて師範役となり、半年で「鬼」と呼ばれた。一方、宮本武蔵は主家の新免氏に従って関ヶ原の戦いに加わり、のちに西へ下る。作者は、武蔵は父母の墓や屋敷跡のある美作の人とすべきだと述べる。
慶長十七年四月、武蔵は父の門弟である細川家の重臣・長岡佐渡を訪ね、小次郎との試合を願う。武芸を好む三斎はすぐに許し、四月十三日辰の上刻、船島での試合が決まった。小次郎は三斎の船、武蔵は佐渡の船で渡ることとされた。
ところが前夜、武蔵は行方が分からなくなり、家中には岩流に恐れて逃げたという噂が立つ。佐渡は、逃げるなら今に限らないと考えて家来を下の関へ出し、船問屋小林太郎左衛門の家にいる武蔵を見つける。武蔵は、敵対する二人が主家の船と重臣の船で渡るのは主君に対していかがかと、佐渡の船を断る手紙を書いた。
当日、武蔵は八時近くまで朝寝をし、使いが来ても「程なく参る」と答える。朝飯の後、亭主から櫂を一本買って小刀で削り、四尺一寸八分の木刀を作った。名人同士の勝負は一分二分の差で決まり、腕が互角なら残るは得物の長短だと考えたのである。舟の中では紙縒りで襷を作り、羽織をかぶってまた寝てしまった。
猩々緋の陣羽織の小次郎は、検使と共に待ちかね、渚に駆け寄って遅参をとがめる。武蔵は黙って笑みを浮かべて波を踏み、小次郎は刀を抜いて鞘を捨てた。武蔵は「小次郎、試合はその方の敗じや」「勝つつもりなら鞘は捨てぬものぞ」と言って笑って迎えた。
一間あまりに近づいた「間」に互いの気合がかかり、小次郎はどっと倒れ、武蔵の鉢巻の手拭が切れて落ちた。近寄った武蔵が二度目の気合をかけると、小次郎の横なぎで武蔵の袷の裾が三尺あまり切れ、同時に武蔵の木刀が小次郎の脇腹の骨を折った。武蔵は息と瞳を確かめて検使に一礼し、自ら櫂を入れて漕ぎ去り、筑前へ向かった。
止めを刺さなかったという批評に、武蔵は、試合は遺恨の勝負ではないから勝てばよく、生き返ったらそれこそ嬉しいと答えた。時刻を遅らせて待ち疲れさせたのは卑怯だという非難には答えていない。作者は、当時の兵法は刀術を表、兵略を裏としたもので、試合の駆け引きも兵法のうちだったと代わりに答える。
後年、熊本で眉間の刀傷のことを言われた武蔵は、燭台を顔に近づけて傷などないことを見せた。細川三斎に家中で眼鏡にかなう者はいるかと問われると、式台に控えていた都甲太兵衛を一目で見出し、死を忘れ果てたという太兵衛の覚悟こそ兵法の極意だと述べた。武蔵は正保二年五月十九日に熊本で死に、養子の伊織が建てた碑が今も小倉に立っている。
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戦国の世。東国一の兵法者とされた飯篠長威斎と並び、西に名を馳せた剣の名人がいた。
越前の富田勢源。眼を病んで入道となり、小太刀を極めた名人である。
この読切は全38ページ。続きは漫画ビューアで、スマートフォンでもそのまま読めます。
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結末に触れない紹介です
戦国の世、東国の飯篠長威斎と並び称された西の名人・富田勢源。その門に学んだ越前の佐々木小次郎は、大太刀を好み、十六歳で「岩流」の一派を開くことを許された天才剣士だった。諸国を巡った小次郎は豊前小倉の細川三斎に師範役として抱えられ、わずか半年で「鬼」と呼ばれる。慶長十七年四月、関ヶ原から西へ下ってきた宮本武蔵は、父の門弟だった細川家の重臣・長岡佐渡を訪ね、小次郎との試合を願い出る。日は四月十三日辰の上刻、場所は下の関と小倉の間に浮かぶ小島・船島。ところが前夜、武蔵は姿を消し、家中には岩流を恐れて逃げたという噂が広がる。当日の朝、下の関の船問屋で朝寝をした武蔵は、亭主から櫂を一本買い、小刀で削りはじめた。名人同士の勝負を分けるのは何か。直木三十五が『二天記』などを引き、ときに自分の考えも差し挟みながら語る巌流島の一戦を、全38ページで描く。
直木賞のすべて「直木三十五の著作目録」によれば初出は『苦楽』1924(大正13)年7月号で、筆名は「直木三十三」。直木が大阪で雑誌『苦楽』の編集にあたり仇討物などを発表していた時期の作品である。物語の中心は慶長十七年(1612年)の豊前小倉・下の関と関門海峡の船島で、勢源の永禄三年の試合や関ヶ原、晩年の熊本にもさかのぼる。本漫画は江戸初期の装いでフルカラーに描き、原作の流血の描写は描かず、倒れる姿や切れた鉢巻で勝敗を示している。
慶長十七年四月十三日、関門海峡の小島・船島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が立ち合う。朝寝をし、櫂を削った木刀を手に遅れて渡る武蔵。名高い一戦の前後を、直木三十五が逸話をまじえて語る史伝風の短編を漫画化。
結末には触れていません
慶長十七年四月十三日、関門海峡の小島・船島で行われた宮本武蔵と佐々木小次郎の試合を描く物語です。試合が決まるまでのいきさつ、前夜の武蔵の失踪、朝寝と櫂の木刀、島での立ち合い、そして後の批評や逸話までが語られます。
原文「船島は下の関と小倉から一里の海上にある小倉領の小島である。」漫画の11ページでこの場面を漫画で見る
名人同士の勝負は、ほんの一瞬早く剣が届くかどうかで決まると武蔵は考えていました。小次郎の物干竿は三尺二寸五分、自分の刀は三尺八分。腕が互角なら勝負を分けるのは得物の長さだと見て、四尺一寸八分の木刀を削り上げたのです。
原文「小次郎の技倆と腕と殆ど伯仲とすれば、残る所はこの得物の長短のみであると武蔵は思った。」漫画の19ページでこの場面を漫画で見る
刀を抜いた小次郎は鞘を捨てて武蔵を迎えました。武蔵はそれを見て、勝って生きて帰るつもりなら鞘を捨てたりはしない、だから試合はもうお前の負けだと笑って言い放ちます。怒った小次郎がそのまま近づいていくところから、勝負が始まります。
原文「勝つつもりなら鞘は捨てぬものぞ」漫画の26ページでこの場面を漫画で見る
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の試合を中心に、二人の剣の系譜、試合が決まるまでの経緯、試合のありさま、のちの批評や逸話までを語る史伝風の短編です。作者の直木三十五は『二天記』などの記録を引きながら、武蔵の生地や試合への批判について自分の考えも述べています。
中心となるのは慶長十七年(1612年)四月の豊前小倉と下の関(下関)、そして両岸から一里の海上にある小島・船島です。小次郎の師・富田勢源の永禄三年の試合や、関ヶ原の戦い、晩年の武蔵が熊本で語った逸話にもさかのぼります。
作中で直木が「信頼すべき書」として引用する武蔵の伝記です。試合の日時や、小次郎は細川家の船、武蔵は長岡佐渡の船で渡るよう定められたことなどが、この書から引かれています。漫画では漢文調の引用を読みやすい言葉に改めています。
直木三十五(1891〜1934年)です。
初出は「苦楽」1924(大正13)年7月号です。
著作権の保護期間が満了した作品で、青空文庫で原文を無料で読めます。このページの「青空文庫・原作情報」から図書カードへ移動できます。漫画は原作をもとにした翻案のため、台詞や構成が原文と異なる部分があります。
読切の38ページで、約12分が目安です(1ページ18秒で計算)。登録不要で無料で読めます。
二人が一間あまりに近づいたとき互いの気合がかかり、小次郎はどっと倒れ、武蔵の鉢巻の手拭が切れて落ちました。武蔵が近寄って二度目の気合をかけると、倒れた小次郎の刀が武蔵の袷の裾を切り、同時に武蔵の木刀が小次郎の脇腹の骨を折りました。
原文「小次郎はどっと倒れてしまうし、武蔵の鉢巻の手拭が切れて落ちた。」漫画の28ページでこの場面を漫画で見る
止めを刺さなかったという批評に対して、武蔵は、小次郎も見事な若者であり、試合は恨みの勝負ではないから勝てばそれでよい、もし生き返ったならそれこそ嬉しい話ではないかと答えています。
原文「もし止めをささずに生返ったらそれこそ嬉しい話ではないか」漫画の32ページでこの場面を漫画で見る
細川三斎から、家中に眼鏡にかなう者はいるかと問われた武蔵は、式台に控えていた都甲太兵衛を連れてきます。常に死の座にいるつもりでいるうちに死のことを忘れ果てたという太兵衛の答えを聞き、武蔵はそれこそが兵法の極意だと述べました。
原文「これが兵法の極意に御座ります」漫画の36ページでこの場面を漫画で見る
巌流島(船島)おおよその位置
船島は下の関と小倉から一里の海上にある小倉領の小島である。
関門海峡に浮かぶ無人島で、正式な名は今も船島(山口県下関市)。武蔵と小次郎が立ち合ったと伝わる島の目安で、試合の地点を示した位置ではありません。
小倉(小倉城一帯)おおよその位置
豊前の国小倉へ来るとともに、太守細川三斎忠興が彼を抱えて師範役とした
小次郎が細川家の師範役となり、武蔵が長岡佐渡を訪ねた城下町です。地図は小倉城(北九州市小倉北区)一帯の目安を示しています。
原文・底本・校正情報を作品ごとに記録します。

AI が作成した案内キャラクターで、本人の発言ではありません
「私は直木三十五。大阪の生まれで、本名は植村宗一といいます。筆名の数字は年とともに改め、三十五に落ち着きました。雑誌『苦楽』に仇討物を書き、『南国太平記』で広く読まれるようになりました。」
「勝つつもりなら鞘は捨てぬものぞ」——『巌流島』原文より
「『巌流島』をどうぞ。櫂を削った木刀を手に遅れて船島へ渡る武蔵と、物干竿の小次郎。名高い一戦の前と後を、逸話をまじえて語ります。」『巌流島』へ
つながり:チェスタートン ギルバート・キース(直木三十五が翻訳)菊池寛(直木賞を創設)
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