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原文と現代語訳の対照

『山月記』現代語訳(全文)

著者: 中島敦

青空文庫の原文を段落ごとに区切り、隣に現代語訳を並べました。読みにくい言い回しは現代語訳で、言葉の響きは原文で味わえます。場面の段落には、その場面を描いた漫画ページへのリンクがあります。

この現代語訳は、生成AIが原文をもとに作成し、段落ごとに原文と照合したものです。学術的な訳注ではありません。正確な表現や解釈は、原文でお確かめください。

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原文隴西ろうさいの李徴りちょうは博学才穎さいえい、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性、狷介けんかい、自みずから恃たのむところ頗すこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるを潔いさぎよしとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山こざん、虢略かくりゃくに帰臥きがし、人と交まじわりを絶って、ひたすら詩作に耽ふけった。下吏となって長く膝ひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺のこそうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐おうて苦しくなる。李徴は漸ようやく焦躁しょうそうに駆られて来た。この頃ころからその容貌ようぼうも峭刻しょうこくとなり、肉落ち骨秀ひいで、眼光のみ徒いたずらに炯々けいけいとして、曾かつて進士に登第とうだいした頃の豊頬ほうきょうの美少年の俤おもかげは、何処どこに求めようもない。数年の後、貧窮に堪たえず、妻子の衣食のために遂ついに節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己おのれの詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥はるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙しがにもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才しゅんさい李徴の自尊心を如何いかに傷きずつけたかは、想像に難かたくない。彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑え難がたくなった。一年の後、公用で旅に出、汝水じょすいのほとりに宿った時、遂に発狂した。或ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇やみの中へ駈出かけだした。彼は二度と戻もどって来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰だれもなかった。

現代語訳隴西の李徴は、学識が広く才気にあふれていた。唐の天宝年間の終わりごろ、若くして科挙(官吏登用試験)の合格者名簿に名を連ね、続いて江南地方の警察・治安を担う役人に任じられた。しかし性格は頑固で人と打ち解けず、自分の才能をひどく恃んでいたので、身分の低い役人に甘んじることをよしとしなかった。間もなく役人を辞めると、故郷の虢略に引きこもり、人との付き合いを絶って、ひたすら詩作にふけった。下級役人として、俗っぽい高官の前に長く膝を屈するよりも、詩人としての名を死後百年先まで残そうとしたのである。しかし、文学の名声はなかなか上がらず、暮らしは日を追うごとに苦しくなっていく。李徴はしだいに焦りに駆られるようになった。このころから顔つきも険しくなり、肉は落ちて骨ばかりが目立ち、目の光だけがむやみにぎらぎらと鋭く、かつて試験に合格したころの、ふっくらした頬の美少年の面影は、どこにも見当たらなくなった。数年後、貧しさに耐えきれず、妻子を養うために、ついに志を曲げて再び東へ向かい、地方の役人の職に就くことになった。一方で、これは自分の詩作に半ば絶望したためでもあった。かつての同僚たちはすでにずっと高い地位に昇っており、昔、彼が鈍いやつらだと相手にもしなかったその連中の命令を受けなければならないことが、かつての秀才・李徴の自尊心をどれほど傷つけたかは、想像に難くない。彼は鬱々として楽しまず、常識外れの激しい性格はますます抑えがたくなった。一年後、公務で旅に出て、汝水のほとりに泊まったとき、ついに気が狂った。ある夜中、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何かわけの分からないことを叫びながら、そのまま外へ飛び出し、闇の中へ駆けていった。彼は二度と戻ってこなかった。付近の山や野原を捜しても、何の手がかりもない。その後、李徴がどうなったのかを知る者は、誰もいなかった。

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原文翌年、監察御史かんさつぎょし、陳郡ちんぐんの袁傪えんさんという者、勅命を奉じて嶺南れいなんに使つかいし、途みちに商於しょうおの地に宿った。次の朝未まだ暗い中うちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎ひとくいどらが出る故ゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜よろしいでしょうと。袁傪は、しかし、供廻ともまわりの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥しりぞけて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎もうこが叢くさむらの中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽たちまち身を飜ひるがえして、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟つぶやくのが聞えた。その声に袁傪は聞き憶おぼえがあった。驚懼きょうくの中にも、彼は咄嗟とっさに思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁傪の性格が、峻峭しゅんしょうな李徴の性情と衝突しなかったためであろう。

現代語訳翌年、監察御史(官吏の不正を取り締まる役人)である陳郡の袁傪という人が、皇帝の命令を受けて嶺南へ使者として向かう途中、商於という土地に泊まった。翌朝、まだ暗いうちに出発しようとしたところ、宿駅の役人がこう言った。この先の道には人食い虎が出るので、旅人は昼間でなければ通れません。今はまだ朝が早いので、もう少しお待ちになったほうがよいでしょう、と。しかし袁傪は、お供の人数が多いのを頼みにして、役人の言葉を退けて出発した。沈みかけた月の光を頼りに林の中の草地を通っていったとき、はたして一匹の猛虎が草むらから躍り出た。虎は、あわや袁傪に飛びかかるかと見えたが、たちまち身をひるがえして、元の草むらに隠れた。草むらの中から、人間の声で「危ないところだった」と繰り返しつぶやくのが聞こえた。その声に、袁傪は聞き覚えがあった。驚き恐れながらも、彼はとっさに思い当たって叫んだ。「その声は、我が友、李徴君ではないか?」袁傪は李徴と同じ年に科挙に合格した仲で、友人の少なかった李徴にとって、最も親しい友だった。温和な袁傪の性格が、とげとげしく厳しい李徴の気性とぶつからなかったためだろう。

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原文叢の中からは、暫しばらく返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微かすかな声が時々洩もれるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

現代語訳草むらの中からは、しばらく返事がなかった。忍び泣きかと思われるかすかな声が、ときどき漏れてくるばかりである。しばらくして、低い声が答えた。「いかにも私は隴西の李徴だ」と。

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原文袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐なつかしげに久闊きゅうかつを叙した。そして、何故なぜ叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人ともの前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭いふけんえんの情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇あうことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭いとわず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

現代語訳袁傪は恐ろしさを忘れ、馬から下りて草むらに近づき、懐かしそうに久しぶりのあいさつをした。そして、なぜ草むらから出てこないのかと尋ねた。李徴の声が答えた。私は今、人間ではない身になっている。どうして恥ずかしげもなく、旧友の前にこの浅ましい姿をさらせるだろうか。それに、私が姿を見せれば、きっと君に恐れや嫌悪の気持ちを起こさせるに決まっているからだ。しかし今、思いがけず旧友に会うことができて、恥ずかしさも忘れるほど懐かしい。どうか、ほんの少しの間でいいから、今の私の醜い姿を嫌がらずに、かつて君の友・李徴であったこの私と話をしてくれないだろうか。

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原文後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停とめ、自分は叢の傍かたわらに立って、見えざる声と対談した。都の噂うわさ、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等らが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊たずねた。草中の声は次のように語った。

現代語訳後で考えれば不思議だったが、そのとき袁傪は、この超自然の怪しい出来事を実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を止め、自分は草むらのそばに立って、姿の見えない声と語り合った。都の噂、昔の友人たちの消息、袁傪の今の地位と、それに対する李徴のお祝いの言葉。若いころに親しかった者どうしの、あの遠慮のない口調でそれらが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身になったのかを尋ねた。草むらの中の声は、次のように語った。

原文今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼めを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻しきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫つかんで走っていた。何か身体からだ中に力が充みち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱ひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうして懼おそれた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直すぐに死を想おもうた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎うさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗まみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還かえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操あやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句を誦そらんずることも出来る。その人間の心で、虎としての己おのれの残虐ざんぎゃくな行おこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤いきどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経たてば、己おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋うもれて消えて了しまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎いしずえが次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂き喰くろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他ほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

現代語訳今から一年ほど前、私が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のことだ。ひと眠りしてからふと目を覚ますと、外で誰かが私の名を呼んでいる。声に応えて外に出てみると、声は闇の中からしきりに私を招く。思わず私は声を追って走り出した。夢中で駆けていくうちに、いつのまにか道は山林に入り、しかも、知らないうちに私は左右の手で地面をつかんで走っていた。何か体じゅうに力が満ちあふれたような感じで、軽々と岩を飛び越えていった。気がつくと、手の先やひじのあたりに毛が生えているらしい。少し明るくなってから、谷川に姿を映してみると、私はすでに虎になっていた。私は初め、自分の目を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だと分かっているような夢を、それまでにも見たことがあったからだ。どうしても夢ではないと悟らなければならなくなったとき、私は呆然とした。そして恐れた。本当に、どんなことでも起こりうるのだと思って、深く恐れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。分からない。まったく、何事も我々には分からないのだ。理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きものの定めなのだ。私はすぐに死を考えた。しかしそのとき、目の前を一匹の兎が駆け抜けるのを見たとたん、私の中の人間はたちまち姿を消した。再び私の中の人間が目を覚ましたとき、私の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが、虎としての最初の経験だった。それ以来、今までにどんな行いを続けてきたか、それはとても語るに忍びない。ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が戻ってくる。そういうときには、昔と同じように人の言葉も使えるし、複雑な考えごともできるし、儒教の経書の文章を暗唱することもできる。その人間の心で、虎としての自分の残虐な行いの跡を見つめ、自分の運命を振り返るときが、最も情けなく、恐ろしく、腹立たしい。しかし、その人間に戻る数時間も、日がたつにつれてしだいに短くなっていく。今までは、どうして虎などになったのかと不思議に思っていたのに、この間ふと気がついてみたら、自分はどうして以前は人間だったのだろうと考えていた。これは恐ろしいことだ。もう少したてば、私の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の土台石が、しだいに土砂に埋もれていくように。そうなれば、しまいに私は自分の過去をすっかり忘れ、一匹の虎として狂い回り、今日のように道で君と出会っても旧友とは気づかず、君を引き裂いて食べても何の後悔も感じないだろう。そもそも、獣でも人間でも、もとは何か別のものだったのではないか。初めはそれを覚えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の姿だったと思い込んでいるのではないだろうか? いや、そんなことはどうでもいい。私の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらくそのほうが、私は幸せになれるだろう。それなのに、私の中の人間は、そのことをこの上なく恐ろしく感じているのだ。ああ、本当に、どれほど恐ろしく、悲しく、切なく思っていることだろう! 自分が人間だった記憶がなくなってしまうことを。この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。私と同じ身の上になった者でなければ。ところで、そうだ。私がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。

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原文袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中そうちゅうの声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。

現代語訳袁傪をはじめ一行の人々は、息をのんで、草むらの中の声が語る不思議な話に聞き入っていた。声は続けて言った。

原文他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇ぺん、固もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚なお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我が為ために伝録して戴いただきたいのだ。何も、これに仍よって一人前の詩人面づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

現代語訳ほかでもない。私はもともと、詩人として名を成すつもりでいた。しかも、その仕事がまだ成し遂げられないうちに、この運命に陥ってしまった。かつて作った数百編の詩は、もちろんまだ世に広まってはいない。原稿のありかも、もう分からなくなっているだろう。ところで、その中で今もなお暗記しているものが数十ある。これを私のために書き記して伝えていただきたいのだ。何も、これによって一人前の詩人づらをしたいのではない。作品の出来の良し悪しは分からないが、とにかく、財産を失い、心を狂わせてまで、私が生涯執着してきたものを、一部でも後の世に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。

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原文袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随したがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。

現代語訳袁傪は部下に命じ、筆を取って草むらの中の声のとおりに書き取らせた。李徴の声は、草むらの中から朗々と響いた。長いもの短いもの、およそ三十編。どれも格調が高く上品で、趣向が際立って優れており、一読して作者の才能が並外れていることを思わせるものばかりだった。しかし袁傪は、感嘆しながらも、ぼんやりと次のように感じていた。なるほど、作者の素質が一流であることは疑いない。しかし、このままでは、一流の作品となるには、どこか(非常に微妙な点で)欠けるところがあるのではないか、と。

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原文旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲あざけるか如ごとくに言った。

現代語訳昔の詩を語り終えた李徴の声は、突然調子を変え、自分をあざけるように言った。

原文羞はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己おれは、己の詩集が長安ちょうあん風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟がんくつの中に横たわって見る夢にだよ。嗤わらってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖じちょうへきを思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐おもいを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。

現代語訳恥ずかしいことだが、今でも、こんな浅ましい身になり果てた今でも、私は、自分の詩集が都・長安の風流な文化人たちの机の上に置かれている様子を、夢に見ることがあるのだ。岩穴の中に横たわって見る夢にだよ。笑ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は、若いころの李徴の自分をあざける癖を思い出しながら、悲しい気持ちで聞いていた。)そうだ。お笑いぐさついでに、今の思いを即興の詩に詠んでみようか。この虎の中に、まだかつての李徴が生きているしるしとして。

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原文袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

現代語訳袁傪はまた部下の役人に命じて、これを書き取らせた。その詩はこうである。

原文偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃

現代語訳(書き下し)偶たま狂疾に因りて殊類と成る 災患相仍りて逃るべからず (意味)たまたま心の病のために、人ならぬ獣の身となってしまった。災いが次々と重なって、逃れることができない。

原文今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

現代語訳(書き下し)今日の爪牙誰か敢へて敵せん 当時の声跡共に相高し (意味)今では、私の爪と牙に誰があえて立ち向かえようか。あのころは、私も君も、ともに名声が高かったのに。

原文我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪

現代語訳(書き下し)我は異物と為る蓬茅の下 君は已に軺に乗りて気勢豪なり (意味)私は獣となって草むらの下に身を潜め、君はすでに使者の車に乗って、勢い盛んである。

原文此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷

現代語訳(書き下し)此の夕べ渓山明月に対し 長嘯を成さずして但だ嘷を成す (意味)この夕べ、谷あいの山で明るい月に向かっても、詩を声高らかに吟じることはできず、ただ獣の吠え声になるばかりだ。

原文時に、残月、光冷ひややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。李徴の声は再び続ける。

現代語訳そのとき、沈みかけた月の光は冷ややかで、白い露は地面に多く降り、木々の間を吹き抜ける冷たい風は、もう夜明けが近いことを告げていた。人々はもはや、この出来事の不思議さも忘れ、厳かな気持ちで、この詩人の不運を嘆いた。李徴の声は再び続けた。

原文何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己おれは努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それが殆ほとんど羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍ごすることも潔いさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。己おのれの珠たまに非あらざることを惧おそれるが故ゆえに、敢あえて刻苦して磨みがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとして瓦かわらに伍することも出来なかった。己おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもんと慙恚ざんいとによって益々ますます己おのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょうな危惧きぐと、刻苦を厭いとう怠惰とが己の凡すべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪たまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖いわに上り、空谷くうこくに向って吼ほえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯ただ、懼おそれ、ひれ伏すばかり。山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。

現代語訳なぜこんな運命になったのか分からないと、さっきは言った。しかし考えようによっては、思い当たることがまったくないわけでもない。人間だったとき、私は努めて人との付き合いを避けた。人々は私を傲慢だ、尊大だと言った。実はそれが、ほとんど羞恥心に近いものだったことを、人々は知らなかった。もちろん、かつて郷里で鬼才と言われた私に、自尊心がなかったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心とでも言うべきものだった。私は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師についたり、詩の仲間と交わって互いに腕を磨き合ったりすることをしなかった。かといってまた、私は俗物たちの仲間に入ることも潔しとしなかった。どちらも、私の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいである。自分が玉ではないかもしれないことを恐れるために、あえて苦労して磨こうともせず、また、自分は玉であるはずだと半ば信じているために、平凡な瓦のような人々に交じって、何を成すでもなく過ごすこともできなかった。私はしだいに世間から離れ、人から遠ざかり、憤りと恥ずかしさと怒りとによって、ますます自分の内にある臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性格だという。私の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが私をだめにし、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果てには、私の外見をこのように、内面にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、私は、自分の持っていたわずかばかりの才能を、まったく無駄にしてしまったわけだ。人生は何事もしないでいるにはあまりに長いが、何事かを成し遂げるにはあまりに短い、などと口先だけの気の利いた言葉をもてあそびながら、実際は、才能の不足があらわになるかもしれないという卑怯な恐れと、苦労を嫌う怠け心とが、私のすべてだったのだ。私よりはるかに乏しい才能でありながら、それをひたすら磨いたために、堂々たる詩人になった者がいくらでもいる。虎になり果てた今、私はようやくそれに気がついた。それを思うと、私は今も胸を焼かれるような後悔を感じる。私にはもう、人間としての生活はできない。たとえ今、頭の中でどんなに優れた詩を作ったとしても、どうやって発表できるだろう。まして、私の頭は日ごとに虎に近づいていく。どうすればいいのだ。無駄にしてしまった私の過去は? 私はたまらなくなる。そんなとき、私は向こうの山の頂の岩に登り、人けのない谷に向かって吠える。この胸を焼く悲しみを、誰かに訴えたいのだ。私は昨晩も、あそこで月に向かって吠えた。誰かにこの苦しみを分かってもらえないかと。しかし、獣たちは私の声を聞いて、ただ恐れ、ひれ伏すばかり。山も木も月も露も、一匹の虎が怒り狂って吠えているとしか思わない。天に躍り上がり、地に伏して嘆いても、誰一人、私の気持ちを分かってくれる者はいない。ちょうど、人間だったころ、私の傷つきやすい心の内を誰も理解してくれなかったように。私の毛皮がぬれているのは、夜露のためばかりではない。

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原文漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。

現代語訳ようやく、あたりの暗さが薄らいできた。木々の間を伝って、どこからか、夜明けを告げる角笛が悲しげに響き始めた。

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原文最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等かれらは未まだ虢略かくりゃくにいる。固より、己の運命に就いては知る筈はずがない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐あわれんで、今後とも道塗どうとに飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるは莫ない。

現代語訳もう別れを告げなければならない。(虎の心に)酔わなければならないときが、(虎に戻らなければならないときが)近づいてきたから、と李徴の声は言った。だが、お別れする前に、もう一つ頼みがある。それは私の妻子のことだ。彼らはまだ虢略にいる。もちろん、私の運命については知るはずがない。君が南から帰ったら、私はもう死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。今日のことだけは、決して明かさないでほしい。厚かましいお願いだが、彼らのか弱さを哀れんで、これから先も道ばたで飢えたり凍えたりすることのないように取り計らっていただけるなら、私にとって、これ以上ありがたいことはない。

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原文言終って、叢中から慟哭どうこくの声が聞えた。袁もまた涙を泛うかべ、欣よろこんで李徴の意に副そいたい旨むねを答えた。李徴の声はしかし忽たちまち又先刻の自嘲的な調子に戻もどって、言った。

現代語訳言い終わると、草むらの中から、声をあげて激しく泣く声が聞こえた。袁傪もまた涙を浮かべ、喜んで李徴の願いに沿いたいと答えた。しかし李徴の声は、たちまちまた先ほどの自分をあざけるような調子に戻って言った。

原文本当は、先まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕おとすのだ。

現代語訳本当は、まずこちらのことを先にお願いするべきだったのだ、私が人間だったなら。飢え凍えようとしている妻子のことよりも、自分の乏しい詩作のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を落とすのだ。

原文そうして、附加つけくわえて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこの途みちを通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方こちらを振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以もって、再び此処ここを過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。

現代語訳そして付け加えてこう言った。袁傪が嶺南から帰るときには、決してこの道を通らないでほしい。そのときには自分が(虎の心に)酔っていて、旧友と気づかずに襲いかかるかもしれないから。また、今別れてから、前方百歩のところにあるあの丘に登ったら、こちらを振り返って見てほしい。私は今の姿をもう一度お見せしよう。勇ましさを誇ろうというのではない。私の醜い姿を見せて、もう一度ここを通って私に会おうという気持ちを、君に起こさせないためなのだ、と。

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原文袁傪は叢に向って、懇ねんごろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、堪たえ得ざるが如き悲泣ひきゅうの声が洩もれた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。

現代語訳袁傪は草むらに向かって、心を込めて別れの言葉を述べ、馬に乗った。草むらの中からは、また、こらえきれないような悲しい泣き声が漏れた。袁傪も何度も草むらを振り返りながら、涙のうちに出発した。

原文一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺ながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

現代語訳一行が丘の上に着いたとき、彼らは言われたとおりに振り返って、先ほどの林の中の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを、彼らは見た。虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声吠えたかと思うと、また元の草むらに躍り込み、再びその姿を見ることはなかった。

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原文について

原文は青空文庫のテキストをもとにしています(ルビも表示しています)。入力・校正にあたられたボランティアの皆さんに感謝します。

  • 底本:「李陵・山月記」新潮文庫、新潮社
  • 入力:平松大樹
  • 校正:林めぐみ
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