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原文と現代語訳の対照

『紫大納言』現代語訳(全文)

著者: 坂口安吾

青空文庫の原文を段落ごとに区切り、隣に現代語訳を並べました。読みにくい言い回しは現代語訳で、言葉の響きは原文で味わえます。場面の段落には、その場面を描いた漫画ページへのリンクがあります。

この現代語訳は、生成AIが原文をもとに作成し、段落ごとに原文と照合したものです。学術的な訳注ではありません。正確な表現や解釈は、原文でお確かめください。

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原文昔、花山院の御時、紫の大納言という人があった。贅肉ぜいにくがたまたま人の姿をかりたように、よくふとっていた。すでに五十の齢であったが、音にきこえた色好みには衰えもなく、夜毎におちこちの女に通った。白々明けの戻り道に、きぬぎぬの残り香をなつかしんでいるのであろうか、ねもやらず、縁にたたずみ、朝景色に見惚れている女の姿を垣間かいま見たりなどすることがあると、垣根のもとに忍び寄って、隙見する習いであった。怪しまれて誰何すいかを受けることがあれば、鶏や鼠のなき声を真似ることも古い習いとなっていたが、時々はまた、お楽しみなことでしたね、などと、通人のものとも見えぬ香かんばしからぬことを言って、満悦だった。垣根際の叢くさむらに、腰の下を露に濡らしてしまうことなど、気にかけたこともないたちだった。

現代語訳昔、花山院が天皇でいらしたころ、紫の大納言という人がいた。ぜい肉がたまたま人の姿を借りたかのように、よく太っていた。もう五十歳だったが、評判の女好きは衰えることもなく、毎晩あちこちの女のもとへ通っていた。明け方の帰り道、恋人と別れた朝の名残の香りを懐かしんでいるのだろうか、眠りもせずに縁側にたたずみ、朝の景色に見とれている女の姿をちらりと見かけたりすると、垣根のそばに忍び寄って、すき間からのぞき見するのが習いだった。怪しまれて「誰だ」と問いただされることがあれば、鶏やねずみの鳴きまねをするのも昔からの習いになっていたが、ときにはまた「お楽しみでしたね」などと、粋な人のものとも思えない品のないことを言って、悦に入っていた。垣根ぎわの草むらで、腰から下を露でぬらしてしまうことなど、気にしたこともない性分だった。

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原文そのころ、左京太夫致忠ムネタダの四男に、藤原の保輔やすすけという横ざまな男があった。甥おいにあたる右兵衛尉うひょうえのじょう斉明トキアキラという若者を語らって、徒党をあつめ、盗賊の首領となった。伊勢の国鈴鹿の山や近江の高島に本拠を構えて、あまたの国々におしわたり、また都にも押し寄せて、人を殺あやめ、美女をさらい、家を焼き、財宝をうばった。即ち今に悪名高い袴垂はかまだれの保輔であった。

現代語訳そのころ、左京太夫・藤原致忠の四男に、藤原保輔という道を外れた男がいた。甥にあたる右兵衛尉・斉明という若者を仲間に引き入れ、手下を集めて盗賊の頭目となった。伊勢の国の鈴鹿山や近江の高島に本拠を構え、多くの国々に押し渡り、また都にも押し寄せては、人を殺し、美女をさらい、家を焼き、財宝を奪った。つまり、今も悪名高い「袴垂れの保輔」である。

原文袴垂れの徒党は、討伐の軍勢を蹴散らかすほど強力であったばかりでなく、狼藉の手口は残忍を極め、微塵みじんも雅風なく、また感傷のあともなかった。隊を分けて横行したので、都は一夜にその東西に火災を起し、また南北の路上には、貴賤富貴、老幼男女の選り好みなく斬り伏せられているのであった。そのさまは、魔風の走るにもみえ、人々は怖れ戦おののいて、夕闇のせまる時刻になると、都大路もすでに通行の人影なく、ただあまたの蝙蝠こうもりがたそがれの澱みをわけて飛び交うばかりであった。

現代語訳袴垂れの一味は、討伐の軍勢を蹴散らすほど強かったばかりでなく、乱暴の手口は残忍をきわめ、みやびなところも、情けをかけた跡もまったくなかった。いくつもの隊に分かれて暴れ回ったので、都は一晩のうちに東でも西でも火事が起こり、また南北の道には、身分の高い者も低い者も、金持ちも貧しい者も、老人も子どもも、男も女も見境なく斬り倒されているのだった。そのありさまは、魔物の風が吹き抜けていくようで、人々は恐れおののき、夕闇が迫るころになると、都の大通りにはもう通る人の影もなく、ただ多くのこうもりが、たそがれの淀んだ空気をかき分けて飛び交うばかりだった。

原文恋のほかには余分の思案というものもない平安京の多感な郎子であったけれども、佳人のもとへ通う夜道の危なさには、粋一念の心掛けも、見栄の魔力も、及ばなかった。

現代語訳恋のほかには余計な考えごとなどない、平安京の感じやすい若い貴公子たちだったが、美しい恋人のもとへ通う夜道の危なさには、粋一筋の心がけも、見栄の魔力もかなわなかった。

原文往昔、花の巴里パリにも、そのような時があったそうな。十七世紀のことだから、この物語に比べれば、そう遠くもない昔である。スキュデリという才色一代を風靡ふうびした佳人があった。粋一念の恋人たちも、ちかごろの物騒さでは、各の佳人のもとへよう通うまいという王様の冗談に答えて、賊を怖れる恋人に恋人の資格はございませぬという意味を、二行の詩うたで返したという名高い話があるそうな。

現代語訳昔、花の都パリにも、そんな時代があったそうだ。十七世紀のことだから、この物語に比べれば、それほど遠い昔ではない。スキュデリという、才色兼備で一世を風靡した女性がいた。粋一筋の恋人たちも、近ごろの物騒さでは、それぞれの恋人のもとへなかなか通えまい、という王様の冗談に答えて、盗賊を恐れるような恋人には恋人の資格がございません、という意味を二行の詩で返した、という有名な話があるそうだ。

原文紫の大納言は、二寸の百足むかでに飛び退いたが、見たこともない幽霊はとんと怖れぬ人だったから、まだ出会わない盗賊には、怯おびえる心がすくなかった。それゆえ、多感な郎子たちが、心にもあらず、恋人の役を怠りがちであったころ、この人ばかりは、とんと夜道の寂寞を訝いぶかりもせず、一夜の幸をあれこれと想い描いて歩くほかには、ついぞ余念に悩むことがないのであった。

現代語訳紫の大納言は、二寸(六センチほど)のむかでには飛びのいたが、見たこともない幽霊はまったく恐れない人だったので、まだ出会ったことのない盗賊を怖がる気持ちも少なかった。だから、感じやすい若い貴公子たちが、心ならずも恋人のもとへ通うのを怠りがちになっていたころにも、この人だけは夜道の寂しさを気にもとめず、今夜の幸せをあれこれ思い描いて歩くほかには、余計なことに悩むことがまったくなかった。

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原文一夜、それは夏の夜のことだった。深草から醍醐だいごへ通う谷あいの径みちを歩いていると、にわかに鳴神がとどろきはじめた。よもの山々は稲妻のひかりに照りはえ、白昼のごとく現れて又掻き消えたが、その稲妻のひらめいたとき、径のかたえの叢に、あたかも稲妻に応えるように異様にかがやくものを見た。大納言はそれを拾った。それは一管の小笛であった。

現代語訳ある夜、それは夏の夜のことだった。深草から醍醐へと通じる谷あいの小道を歩いていると、急に雷が鳴り始めた。あたりの山々は稲妻の光に照らし出され、真昼のように現れてはまたかき消えたが、その稲妻がひらめいたとき、小道のわきの草むらに、まるで稲妻に応えるように異様に輝くものが見えた。大納言はそれを拾った。それは一本の小さな笛だった。

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原文折しも雨はごうごうと降りしぶいて、地軸を流すようだったので、大納言は松の大樹の蔭にかくれて、はれまを待たねばならなかった。

現代語訳ちょうどそのとき、雨がごうごうと激しく降り出し、大地を押し流すほどの勢いだったので、大納言は大きな松の木の陰に隠れて、雨がやむのを待たなければならなかった。

原文雨ははれた。谷あいの小径は、そうしてよもの山々は、すでに皓月こうげつの下にくっきりと照らしだされているのであった。と、大納言の歩く行くてに、羅うすものの白衣をまとうた女の姿が、月光をうしろにうけて、静かに立っているのであった。

現代語訳雨はやんだ。谷あいの小道も、まわりの山々も、すでに明るく白い月の光にくっきりと照らし出されていた。すると、大納言の歩いていく行く手に、薄絹の白い衣をまとった女の姿が、月の光を背に受けて、静かに立っていた。

原文「わたくしの笛をお返しなされて下さいませ」

現代語訳「私の笛をお返しくださいませ」

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原文鈴のねのような声だった。それは凜然として命令の冷めたさが漲みなぎっていた。

現代語訳鈴の音のような声だった。そこには凛として、命令するような冷たさがみなぎっていた。

原文「わたくしは人の世の者ではございませぬ。月の国の姫にかしずく侍女のひとりでございますが、あやまって姫の寵愛の小笛を落し、それをとって戻らなければ、再び天上に住むことがかないませぬ。不愍ふびんと思い、それを返して下さりませ」

現代語訳「私は人間の世界の者ではございません。月の国の姫にお仕えする侍女の一人でございますが、誤って姫のお気に入りの小笛を落としてしまい、それを取って戻らなければ、二度と天上に住むことができません。かわいそうだと思って、それを返してくださいませ」

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原文「はてさて、これは奇遇です」と、大納言は驚いて答えた。「私の祖父の家来であった年寄が、月の兎の餅もちを拾って食べたところ、三ヶ日は夜目が見えたという話ならば聞き及んでおりましたが、月の姫の寵愛の笛をこの私めが拾う縁に当ろうなどとは、夢にも思うてみませんでした。なるほど、あなたの笛であってみれば、もとより、お返し致さぬという非道のある筈はずがございましょうか。けれども、このような稀有けうの奇縁を、ときのまのうちに失い去ってしまうことは、夢の中でもない限り、私共の地上では、決して致さぬならわしのものです。まず、ゆるゆると、異った世界の消息などを語りあうことに致しましょう。さいわい、ほど近い山科やましなの里に、私の召使う者の住居があります。むさぐるしい所ではありますが、あなたの暫しばしの御滞在に不自由は致させますまい」

現代語訳「いやはや、これは不思議なめぐり合わせです」と大納言は驚いて答えた。「私の祖父の家来だった年寄りが、月の兎のついた餅を拾って食べたら、三日間は夜でも目が見えたという話なら聞いたことがありましたが、月の姫のお気に入りの笛を、この私めが拾うめぐり合わせになろうとは、夢にも思っていませんでした。なるほど、あなたの笛であるならば、もちろんお返ししないなどという非道があるはずがありましょうか。けれども、このようにめったにない不思議なご縁を、ほんの短い間に失ってしまうことは、夢の中ででもない限り、私たちの地上では決していたさない習わしなのです。まずは、ゆっくりと、別の世界のお話などを語り合うことにいたしましょう。幸い、すぐ近くの山科の里に、私の召し使いの住まいがあります。むさくるしい所ではありますが、あなたのしばらくのご滞在に不自由はさせますまい」

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原文天女はにわかに打ち驚いて、ありありと恐怖の色をあらわした。

現代語訳天女は急にひどく驚いて、ありありと恐怖の色を浮かべた。

原文「わたくしは急がなければなりませぬ」必死であった。「姫は待ちわびていらせられます」

現代語訳「私は急がなければなりません」と天女は必死だった。「姫が待ちわびていらっしゃいます」

原文「なんの、三日や五日のことが」と、大納言は天女の悲しむありさまを見て、満悦のために、不遜な笑えみを鼻皺はなじわにきざんだ。「浦島は乙姫の館に三日泊って、それが地上の三百年に当っていたという話ではありませんか。まして、月の国では、地上の三千年が三日ほどにも当りますまい。五日はおろか、十日、ひと月の御滞在でも、月の国では、姫君が、くさめを遊ばすあいだです。疑は人間にありとか、月の世界にくらべては、下界はただ卑しく汚い所ではありますが、又、それなりの風情もあれば楽しみもあります。恋のやみじに惑いもすれば、いとしい人に拗すねてもみる。聞き及んだところでは、天上界はあなたのような乙女ばかりで男のいない処だとか、はてさて、それでは、あやがない。御覧ごろうじませ。あの山の端にかかっているあなたの国の月光が、なんと、私共の地上では、娘と男のはるかな想いを結びあわせる糸ともなれば、恋の涙を真珠にかえる役目もします。魚心あれば水心とは申しませぬ。五日の後に、この笛は、きっとおてもとに返しましょう。まず、それまでは、下界の風にも吹かれてみて、人間共のかげろうのいとなみを後日の笑いぐさになさいませ」

現代語訳「なあに、三日や五日のことです」と、大納言は天女の悲しむ様子を見て、満足のあまり、鼻にしわを寄せて不遜な笑いを浮かべた。「浦島太郎は乙姫の館に三日泊まったら、それが地上の三百年に当たっていたというではありませんか。まして月の国では、地上の三千年が三日ほどにも当たらないでしょう。五日どころか、十日、ひと月ご滞在になっても、月の国では、姫君がくしゃみをなさる間のことです。疑いは人間にあるもの、とか申します。月の世界に比べれば、下界はただ卑しく汚い所ではありますが、それなりの風情もあれば楽しみもあります。恋の闇路に迷いもすれば、愛しい人にすねてもみる。聞いたところでは、天上界はあなたのような乙女ばかりで、男のいない所だとか。いやはや、それではつまらない。ご覧なさい。あの山の端にかかっているあなたの国の月の光が、なんと、私たちの地上では、娘と男の遠く離れた思いを結び合わせる糸にもなれば、恋の涙を真珠に変える役目もするのです。こちらが好意を示せば、そちらも好意で応えてくれるもの、とまでは申しません。五日後に、この笛はきっとお手もとにお返ししましょう。まずはそれまで、下界の風にも吹かれてみて、人間たちのかげろうのようにはかない営みを、後の笑い話になさいませ」

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原文天女は涙をうかべた。

現代語訳天女は涙を浮かべた。

原文「天翔あまがける衣が欲しいとは思いませぬか」必死に叫んだ。「あの大空をひととびにする衣ですよ。笛を返して下さる御礼に、次の月夜に、きっとお届け致しましょう。天女に偽いつわりはございませぬ」

現代語訳「空を飛ぶ衣が欲しいとは思いませんか」と天女は必死に叫んだ。「あの大空をひと飛びにできる衣ですよ。笛を返してくださるお礼に、次の月夜にきっとお届けいたしましょう。天女にうそはございません」

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原文「隠れ蓑の大納言とは聞き及びましたが、空飛びの大納言は珍聞です」と、大納言はにやにやした。「すらりとしたあなたならばいざ知らず、猪のようにふとった私が空を翔けても、とんと風味がありますまい。私は、こうして、京のおちこちを歩くだけで沢山です。唐、天竺てんじくの女のことまで気にかかっては、眠るいとまもありますまい。まあさ。郷に入っては郷に従えと云う通り、この国では、若い娘が男の顔をみるときは、笑顔をつくるものですよ」

現代語訳「隠れ蓑の大納言なら聞いたことがありますが、空飛ぶ大納言とは珍しい話です」と、大納言はにやにやした。「すらりとしたあなたならともかく、いのししのように太った私が空を飛んでも、まるで趣がないでしょう。私はこうして、京のあちこちを歩き回るだけで十分です。中国やインドの女のことまで気にかかっては、眠る暇もありますまい。まあまあ。郷に入っては郷に従えと言うとおり、この国では、若い娘が男の顔を見るときは、笑顔をつくるものですよ」

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原文大納言の官能は、したたか酩酊めいていに及びはじめた。ふらりふらりと天女に近づき、片手で天女の片手をとり、片手で天女の頬っぺたを弾はじきそうな様子であった。

現代語訳大納言の官能は、すっかり酔ったようにしびれ始めた。ふらりふらりと天女に近づき、片手で天女の片手を取り、もう片方の手で天女の頬をつつきそうな様子だった。

原文天女は飛びのき、凜として、柳眉りゅうびを逆立てて、直立した。

現代語訳天女は飛びのき、凛として、美しい眉をつり上げて、まっすぐに立った。

原文「あとで悔いても及びませぬ。姫君のお仕置が怖しいとは思いませぬか」大納言を睨にらみ、刺した。「月の国の仕返しを受けますよ」

現代語訳「後で悔やんでも遅いのですよ。姫君のお仕置きが恐ろしいとは思わないのですか」と大納言をにらみつけ、鋭く言った。「月の国の仕返しを受けますよ」

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原文「ワッハッハッハ。天つ乙女の軍勢が攻め寄せて来ますかな。いや、喜び勇んで一戦に応じましょう。一族郎党、さだめし勇み立って戦うことでありましょう。力つきれば、敗れることを悔いますまい。こうときまれば、愈いよいよこの笛は差上げられぬ」

現代語訳「わっはっはっは。天の乙女たちの軍勢が攻め寄せてきますかな。いや、喜び勇んで一戦に応じましょう。一族郎党、さぞ勇み立って戦うことでしょう。力尽きたら、負けても悔やみはしますまい。こうなったら、いよいよこの笛は差し上げられない」

原文天女は張りつめた力もくずれ、しくしく泣きだした。

現代語訳天女は張りつめていた力も崩れ、しくしく泣き出した。

原文大納言はそれを眺めて、満悦のためにだらしなくとろけた顔をにたにたさせて、喉を鳴らした。

現代語訳大納言はそれを眺めて、満足のあまりだらしなくとろけた顔をにたにたさせ、喉を鳴らした。

原文天女の裳裾もすそをとりあげて、泥を払ってやるふりをして、不思議な香気をたのしんだ。

現代語訳天女の裳裾を取り上げて、泥を払ってやるふりをしながら、不思議な香りを楽しんだ。

原文「これさ。御案じなさることはありますまい。とって食おうとは申しませぬ」

現代語訳「これこれ。ご心配なさることはありますまい。取って食おうとは申しません」

原文大納言は食指をしゃぶって、意地悪く、天女の素足をつついた。泣きくれながら、本能的にあとずさり、すくみ、ふるえる天女の姿態を満喫して、しびれる官能をたのしんだ。

現代語訳大納言は人さし指をしゃぶって、意地悪く天女の素足をつついた。泣きぬれながら、本能的に後ずさりし、身をすくめて震える天女の姿を存分に眺めて、しびれるような官能を楽しんだ。

原文「とにかく、この山中では、打解けて話もできますまい。はじめて下界へお降りあそばしたこととて、心細さがひとしおとは察せられますが、それとてもこの世のならいによれば、忘れという魔者の使いが、一夜のうちに涙をふいてくれる筈。お望みならば、月の姫の御殿に劣らぬお住居もつくらせましょう。おや、知らないうちに、月もだいぶ上ったようです。まず、そろそろと、めあての家へ参ることに致しましょう」

現代語訳「とにかく、この山の中では、打ち解けて話もできますまい。初めて下界へお降りになったことですから、心細さもひとしおとお察ししますが、それとても、この世の習わしでは、『忘却』という魔物の使いが、一晩のうちに涙をふいてくれるはずです。お望みなら、月の姫の御殿に劣らないお住まいも造らせましょう。おや、知らないうちに、月もだいぶ高く上ったようです。まずはそろそろ、目当ての家へ参ることにいたしましょう」

原文大納言は天女のかいなを執り、ひきおこした。

現代語訳大納言は天女の腕を取って、引き起こした。

原文天女は嘆き悲しんだが、大納言の決意の前には、及ばなかった。

現代語訳天女は嘆き悲しんだが、大納言の決意の前にはかなわなかった。

原文大納言の言葉のままに、彼の召使う者の棲家すみかへ、歩かなければならなかった。

現代語訳大納言の言うままに、彼の召し使いの住まいへと歩かなければならなかった。

原文さて、燈火のもとで、はじめて、天女のありさま、かお、かたちを見ることができたとき、その目覚ましい美しさに、大納言は魂たまも消ゆる思いがしたのであった。いかなる仇敵であろうとも、この美しいひとの嘆きに沈むさまを見ては、心を動かさずにはいられまいと思われた。

現代語訳さて、灯火のもとで、初めて天女の様子や顔かたちを見ることができたとき、その目の覚めるような美しさに、大納言は魂も消えるような思いがした。どんな憎い敵であっても、この美しい人が嘆きに沈む姿を見たら、心を動かさずにはいられないだろうと思われた。

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原文伽羅きゃらも及ばぬ微妙な香気が、ほのぼのと部屋にこめて、夜空へ流れた。

現代語訳最高の香木である伽羅も及ばない微妙な香りが、ほのぼのと部屋に満ちて、夜空へと流れていった。

原文ともすれば、うっとりと、あやしい思いになりながら、それをさえぎる冷たいおののきに気がついて、大納言は自分の心を疑った。今迄に、ついぞ覚えのない心であった。胸をさす痛みのような、つめたく、ちいさな、怖れであった。

現代語訳ともすればうっとりと怪しい気持ちになりながら、それをさえぎる冷たい震えに気がついて、大納言は自分の心を疑った。今までに一度も覚えたことのない気持ちだった。胸を刺す痛みのような、冷たく小さな恐れだった。

原文大納言は自分の心と戦った。

現代語訳大納言は自分の心と戦った。

原文召使う者にいいつけて、うちかけを求めさせ、それを天女にかけてやったが、そのとき、彼は、うちかけの下に、天女をしかと抱きしめて、澄んだししあいの官能をたのしみたいと思っていた。いや、うちかけをかけてやるふりをして、羅うすものの白衣すら、ぬがせたい思いであった。

現代語訳召し使いに言いつけて打掛(上着)を持ってこさせ、それを天女にかけてやったが、そのとき彼は、打掛の下で天女をしっかりと抱きしめて、その清らかな肌の官能を味わいたいと思っていた。いや、打掛をかけてやるふりをして、薄絹の白い衣さえ脱がせたい思いだった。

原文が、大納言の足は重たく、すすまなかった。うちかけをかけてやる手も、延びなかった。うちかけは、無器用に、天女の肩のうえに落ちた。ずり落ちて、朱の裏をだし、やるせなかった。羅の白衣につつまれた天女の肩がむなしく現れ、つめたく、冴え冴えと、美しかった。

現代語訳だが、大納言の足は重く、前に進まなかった。打掛をかけてやる手も伸びなかった。打掛はぎこちなく天女の肩の上に落ちた。ずり落ちて朱色の裏地を見せ、やるせなかった。薄絹の白い衣に包まれた天女の肩がむなしく現れ、冷たく、冴え冴えとして、美しかった。

原文「山中は夜がひえます」

現代語訳「山の中は夜が冷えます」

原文大納言は、立ちすくんで、つめたい、動かぬ人に、言った。自分の声とは思われぬ、むなしく、腑ぬけた、ひびきであった。

現代語訳大納言は立ちすくんだまま、冷たく動かない人に言った。自分の声とは思えない、むなしく、腑抜けた響きだった。

原文大納言は、悲しさに駆りたてられて、そのせつなさに、からだのちぎれる思いがした。

現代語訳大納言は悲しさに駆り立てられ、そのせつなさに、体がちぎれるような思いがした。

原文「五日です! ただ、五日です!」

現代語訳「五日です! ただ五日です!」

原文大納言は、はらわたを搾しぼるように、口走った。

現代語訳大納言は、はらわたを絞るように口走った。

原文「それ以上は、決して、おひきとめは致しませぬ。あなたのおからだに、指一本もふれますまい。夜は、この家に、泊りますまい。あやしい思いを、起すことすら、致しますまい。笛を落したあなたが悪い! それを拾わねばならなかった私の因縁が、どうにも、仕方がないのです。五日のあいだ! それは、仕方がありません! あした、あなたのお目覚めのころ、私の召使う者どもが、あなたの御こころを慰めるために、くさぐさの品と、地上の珍味をたずさえて、ここへお訪ねするでしょう。その者どもは、すべて、あなたの忠実なしもべたちです。あなたの御意にそむく何ものもありませぬ。私とて、五日の後にこの笛をお返し致す約束のほかは、あなたの御意にそむく何事も致しませぬ。そうして、夜分、あなたの御心がしずまったころ、私はここへ訪ねてきます。あなたの笑顔をみることができ、月の国のお友達や、親、姉妹と語るように打解けたお声をきくだけで、満足です。私を嘆かせて下さいますな。あなたの涙は、私のはらわたを、かきむしります。ただ、五日ではありませんか。この因縁は、もはや、仕方がないのです」

現代語訳「それ以上は、決してお引きとめはいたしません。あなたのお体に、指一本触れますまい。夜はこの家に泊まりますまい。怪しい気持ちを起こすことさえいたしますまい。笛を落としたあなたが悪い! それを拾わなければならなかった私の因縁が、どうにも仕方がないのです。五日の間! それは仕方がありません! 明日、あなたがお目覚めになるころ、私の召し使いたちが、あなたのお心を慰めるために、いろいろな品物と地上の珍しいごちそうを持って、ここへお訪ねするでしょう。その者たちは、みなあなたの忠実な召し使いです。あなたのお気持ちに背くことは何もありません。私とても、五日後にこの笛をお返しする約束のほかは、あなたのお気持ちに背くことは何もいたしません。そして夜、あなたのお心が落ち着いたころ、私はここへ訪ねてきます。あなたの笑顔を見ることができ、月の国のお友だちや、親や姉妹と話すように打ち解けたお声を聞けるだけで満足です。私を嘆かせないでください。あなたの涙は、私のはらわたをかきむしります。ただ五日ではありませんか。この因縁は、もう仕方がないのです」

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原文大納言はむなしく吠え、虚空をつかみ、せつなかった。

現代語訳大納言はむなしく叫び、空をつかみ、せつなかった。

原文几帳きちょうの蔭に悲しみの天女をやすませて、大納言は縁へでた。静かな月の光を仰いだ。はじめて彼は、この世に悲しみというもののあることを、沁々しみじみ知った思いがした。

現代語訳几帳(布の仕切り)の陰で悲しむ天女を休ませて、大納言は縁側へ出た。静かな月の光を仰いだ。生まれて初めて、彼はこの世に悲しみというものがあることを、しみじみと知った思いがした。

原文こうして、ただ、月光を仰ぐことが、説明しがたい悲しさと同じ思いになることは、いったい、どうしたわけだろう。天女の身につけた清らかな香気が、たちまち月光の香気となって、彼の胎内をさしぬき、もし流れでる涙があれば、地上に落ちて珠玉となろうと彼は思った。ともすれば、あやしい思いにおちるのを、不思議な悲しさがながれ、泣きふしてしまいたい切なさに駆りたてられて、道を走った。

現代語訳こうしてただ月の光を仰ぐことが、説明しがたい悲しさと同じ気持ちになるのは、いったいどうしたわけだろう。天女の身につけていた清らかな香りが、たちまち月の光の香りとなって、彼の体の奥を突き抜け、もし流れ出る涙があれば、それは地上に落ちて宝石になるだろう、と彼は思った。ともすれば怪しい気持ちに落ちていくのを、不思議な悲しさが洗い流し、泣き伏してしまいたいせつなさに駆り立てられて、彼は道を走った。

原文やがて、大納言は、息がきれ、はりさけそうな苦痛のうちに、天女のししあいを思っていた。痺しびれるようなあやしさが、再び彼のすべてをさらった。官能は燃え、からだは狂気の焔であった。彼は走った。夢のうちに、森をくぐり、谷を越えた。京の住居へ辿たどりついて、くずれるように、うちふした。

現代語訳やがて大納言は息が切れ、張り裂けそうな苦しさの中で、天女の肌のことを思っていた。しびれるような怪しい気持ちが、再び彼のすべてをさらった。官能は燃え、体は狂気の炎だった。彼は走った。夢うつつのうちに森をくぐり、谷を越えた。京の住まいにたどり着いて、崩れるように倒れ伏した。

原文翌あくる日。大納言は思案にかきくれ、うちもだえた。夜明けは、彼の心をしずめるために訪れはせず、恋と、不安と、たくらみと、野獣の血潮をもたらして、訪れていた。

現代語訳翌日。大納言は思い悩み、身もだえした。夜明けは彼の心を静めるために訪れたのではなく、恋と、不安と、たくらみと、獣の血潮とをもたらして訪れていた。

原文大納言は、笛をめぐって、一日、まどい、苦しんだ。

現代語訳大納言は、笛のことで一日じゅう迷い、苦しんだ。

原文この笛が地上から姿を消してくれさえすれば、あのひとは月の国へ帰ることを諦あきらめるかも知れない筈だということを――

現代語訳この笛が地上から姿を消しさえすれば、あの人は月の国へ帰ることをあきらめるかもしれない――

原文こな微塵みじんに笛を砕いて、焼きすてることを考えた。賀茂川の瀬へ投げすてて、大海へおし流すことも考えた。穴をほり、うずめることも考えた。だが、決断はつかなかった。

現代語訳笛を粉みじんに砕いて、焼き捨てることを考えた。賀茂川の流れに投げ捨てて、大海へ押し流すことも考えた。穴を掘って埋めることも考えた。だが、決心はつかなかった。

原文五日の後に笛がかえると思えばこそ、あのひとは地上にいるのであろう。笛の紛失が確定すれば、天へ去らぬとも限らない。そういうことも思われた。

現代語訳五日後に笛が返ってくると思えばこそ、あの人は地上にいるのだろう。笛がなくなったと決まれば、天へ去らないとも限らない。そんなことも思われた。

原文あのひとを地上にとどめるためには、掌中に、常に笛がなければならぬ。そうして、あのまっしろなししあいを得るためにも――そういうことも、思われた。

現代語訳あの人を地上にとどめておくためには、いつも手の中に笛がなければならない。そして、あの真っ白な肌を手に入れるためにも――そんなことも思われた。

原文あの、まっしろなししあいが、もはや、大納言のすべてであった。どのように無残なふるまいを敢てしても、あのししあいをわがものとしなければならぬと彼は思った。

現代語訳あの真っ白な肌が、もはや大納言のすべてだった。どんなにむごい振る舞いをあえてしてでも、あの肌を自分のものにしなければならない、と彼は思った。

原文天も、神も、皓月も、また悪鬼も、この怖ろしい無道を、よく見ているがいい。どのような報いも受けよう。あのひとのししあいを得てのちならば、一瞬にして、命を召されることも怖れはしまい。悔いもしまい。命をかけての恋ならば、たとい万死に価しても、なお、一滴の涙、草の葉の露の涙、くさむらにすだく虫のはかないあわれみ、それをかけてくれるものが、何者か、あるような思いがした。

現代語訳天も、神も、明るい月も、また悪鬼も、この恐ろしい非道をよく見ているがいい。どんな報いでも受けよう。あの人の肌を手に入れた後なら、一瞬で命を取られることも恐れはしまい。悔やみもしまい。命をかけた恋ならば、たとえ万回死ぬに値する罪であっても、なお、一滴の涙を――草の葉の露のような涙を、草むらで鳴く虫のはかない哀れみを、かけてくれる何者かがいるような気がした。

原文たそがれ、大納言は小笛をたずさえてわが家をでた。

現代語訳夕暮れ、大納言は小笛を持って家を出た。

原文道へでて、はじめて心は勇みたち、のどかであった。一夜のさちを、あれこれと思う心が戻っていた。澄んだ、ゆたかな、ししあいを思った。やわらかな胸と、嘆きにぬれた顔を思った。ゆたかに延びた手と脚を思った。祈る目と、すくむししむらと、そよぐ髪と、ふるえる小さな指を思った。四方の山も、森も、闇も、踏む足も、忘れた。

現代語訳道に出ると、初めて心は勇み立ち、のどかになった。今夜の幸せをあれこれ思う心が戻っていた。澄んだ、豊かな肌を思った。柔らかな胸と、嘆きにぬれた顔を思った。すらりと伸びた手と足を思った。祈るような目と、すくむ体と、なびく髪と、震える小さな指を思った。まわりの山も、森も、闇も、踏む足のことも忘れた。

原文日が暮れて、月がでた。山の端にさしでた月の光から身を隠すよすがもなかったが、たじろぐ胸をはげます力も溢あふれていた。怖ろしい何者もない思いがした。月に小笛を見られることも、怖れなかった。昨日、小笛を拾った場所へ近づいた。

現代語訳日が暮れて、月が出た。山の端に差し出た月の光から身を隠す手だてもなかったが、ひるむ胸を励ます力もあふれていた。恐ろしいものは何もないような気がした。月に小笛を見られることも恐れなかった。昨日、小笛を拾った場所に近づいた。

原文と、谷あいのしじまを破る気配がした。木蔭から月光の下へ躍りでて、行くてをふさいだものがある。四人、五人、また一人。現れたものは太刀をぬいて、すでに彼をとりまいていた。

現代語訳すると、谷あいの静けさを破る気配がした。木陰から月の光の下へ躍り出て、行く手をふさいだ者がいる。四人、五人、また一人。現れた者たちは太刀を抜いて、もう彼を取り囲んでいた。

原文大納言はその場へくずれて坐ったことも気付かなかった。思わず小笛をとり落した。むなしく月の使者達を眺めた。そうして、声がでなかった。と、然し、彼等が袴垂れの徒党であると分ったときには、安堵のために、思わず深い放心を覚えた。

現代語訳大納言は、その場に崩れるように座り込んだことにも気づかなかった。思わず小笛を取り落とした。ぼんやりと月からの使者たちを眺めた。そして、声が出なかった。ところが、彼らが袴垂れの一味だと分かったときには、安心のあまり、思わずすっかり気が抜けてしまった。

原文やにわに、彼は、落した小笛をとりあげて、まず、まっさきに、盗人の前へ差しだした。

現代語訳いきなり彼は、落とした小笛を拾い上げて、まず真っ先に盗賊の前へ差し出した。

原文「これをやろう!」

現代語訳「これをやろう!」

原文こみあげてくる言葉に追われて、はずむ声で、彼は叫んだ。

現代語訳込み上げてくる言葉に追い立てられて、弾む声で彼は叫んだ。

原文「命にかえられぬ秘蔵の品だが、とりかこまれては是非もない。これを奪って、今宵第一の獲物にせよ」

現代語訳「命にも代えられない秘蔵の品だが、取り囲まれては仕方がない。これを奪って、今夜一番の獲物にせよ」

原文盗人は大納言の手中から無造作に小笛をひったくり、返す手で、大納言のたるんだ頬を小笛でピシリとひっぱたいた。大納言はようやく、気付いて、うろたえた。

現代語訳盗賊は大納言の手から無造作に小笛をひったくり、返す手で、大納言のたるんだ頬を小笛でぴしりとひっぱたいた。大納言はようやく我に返って、うろたえた。

原文「太刀もやろう。欲しいものは、みんな、やろう」

現代語訳「太刀もやろう。欲しいものは、みんなやろう」

原文「衣も、おくせ」

現代語訳「着物もよこせ」

原文大納言は汗衫かざみひとつで、月光の下の小径を走っていた。

現代語訳大納言は汗衫(肌着)一枚で、月の光の下の小道を走っていた。

原文暈かささえもない皓月をふり仰ぎながら、それに向って、声一杯訴えたい切なさが、胸をさき、あふれでようとするのであった。御覧の通りの仕儀なのでした。無道な賊が現れて、笛を奪ってしまったのです。非力の私に、どうするてだてがありましょう。御覧なさい。私は太刀も奪われました。衣も奪われてしまったのです。残ったものは、汗衫ひとつと、命だけ。どうにも仕方がなかったのです。神々よ。私のせつない悲しさを照覧あれ、と。あつい涙が、頬を流れた。むしろ天女に慰めてもらえる権利があるような、子供ごころの嘆きがつのった。

現代語訳かさもかかっていない明るい月を仰ぎながら、それに向かって声いっぱいに訴えたいせつなさが、胸を裂いてあふれ出ようとしていた。ご覧のとおりのありさまなのです。無法な盗賊が現れて、笛を奪っていってしまったのです。力のない私に、どうする手だてがありましょう。ご覧なさい。私は太刀も奪われました。着物も奪われてしまったのです。残ったものは、肌着一枚と命だけ。どうにも仕方がなかったのです。神々よ、私のせつない悲しさをご覧ください、と。熱い涙が頬を流れた。むしろ自分には天女に慰めてもらう権利があるような、子どもじみた嘆きがつのった。

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原文山科の家へ辿りついて、彼は叫んだ。

現代語訳山科の家にたどり着いて、彼は叫んだ。

原文「あなたのふるさとであるところのあの清らかな月の光が、すべてを見ていた筈でした。私は笛をとられました。丁度あなたの小笛を拾ったあのあたりで、数名の無道の賊徒が現れて、いきなり、小笛をとりました。それから、太刀も、衣も、とりました。命をとられなかったのが、不思議です。いいえ、私は、命が惜しいとはつゆ思いませぬ。それが償いとなるならば、即坐に一命を断つことも辞しますまい。あなたの命とも申すような大切な小笛を奪いとられた悲しさに、私の涙が赤い血潮とならないことが、もどかしい。あなたの嘆き悲しむさまを、今宵も亦また、再び見なければならないことが、一命を失うよりも、せつないのです」

現代語訳「あなたのふるさとである、あの清らかな月の光が、すべてを見ていたはずでした。私は笛を取られました。ちょうどあなたの小笛を拾ったあのあたりで、数人の無法な盗賊が現れて、いきなり小笛を奪いました。それから太刀も、着物も取りました。命を取られなかったのが不思議です。いいえ、私は命が惜しいとは少しも思いません。それが償いになるのなら、すぐにでも命を絶つこともいといますまい。あなたの命とも言うべき大切な小笛を奪い取られた悲しさに、私の涙が赤い血にならないことがもどかしい。あなたが嘆き悲しむ姿を今夜もまた見なければならないことが、命を失うよりもせつないのです」

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原文大納言は、うちもだえ、うちふして、慟哭どうこくした。

現代語訳大納言は身もだえし、ひれ伏して、声をあげて泣いた。

原文天女は立った。大納言を見下して、涙に、怒りが凍っていた。

現代語訳天女は立ち上がった。大納言を見下ろし、その涙には怒りが凍りついていた。

原文「償いに命を断つと仰有おっしゃるならば、なぜ、命をすてて小笛をまもって下さいませぬ。心にもない涙ほど愚かなものはありませぬ」天女は、むせび、泣いた。「いいえ。小笛は、盗まれたのではありませぬ。あなたがお捨てあそばしたのです。卑劣な言い訳を仰有いますな。笛を返して下さいませ。いま、すぐ、返して、下さいませ。月の姫が、何物にもまして、御寵愛の小笛です」

現代語訳「償いに命を絶つとおっしゃるのなら、なぜ命を捨てて小笛を守ってくださらなかったのです。心にもない涙ほど愚かなものはありません」天女はむせび泣いた。「いいえ。小笛は盗まれたのではありません。あなたがお捨てになったのです。卑劣な言い訳をおっしゃいますな。笛を返してくださいませ。今すぐ返してくださいませ。月の姫が何よりも大切にしていらっしゃる小笛です」

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原文「これは又、悲しいお言葉をきくものです」と、大納言は恨みをこめて天女をみた。「あなたの嘆きを見ることが、天地の死滅を見るよりも悲しい私でございませんか。もしも、たしかに捨てた笛なら、言い訳は致しますまい。いかにも、私は、捨てたい心はありました。あの笛が姿を消して、そのために、あなたが地上の人となって下さるならば、笛をくだいて、焼きすてたいと思いました。賀茂川の瀬へ投げすてたいとも思いました。千尺の穴の底へうずめたいとも思いました。この一日、思いくらしていたのです。けれども、それは、できませぬ。あなたの嘆きを見ることが、地獄の責苦を見るにもまして、せつなかったからでした。私の涙に、つゆ偽はありませぬ。天よ。照覧あれ。私の命が笛にかえ得るものならば、たちどころに命を召されて、この場に笛となることを選びましょう」

現代語訳「これはまた、悲しいお言葉を聞くものです」と、大納言は恨みを込めて天女を見た。「あなたの嘆きを見ることが、天地が滅びるのを見るよりも悲しい私ではありませんか。もし本当に捨てた笛なら、言い訳はいたしますまい。たしかに私には、捨てたい気持ちはありました。あの笛が姿を消して、そのためにあなたが地上の人となってくださるなら、笛を砕いて焼き捨てたいと思いました。賀茂川の流れに投げ捨てたいとも思いました。千尺の深い穴の底に埋めたいとも思いました。この一日、そう思い暮らしていたのです。けれども、それはできませんでした。あなたの嘆きを見ることが、地獄の責め苦を見るよりもせつなかったからです。私の涙に、少しのうそもありません。天よ、ご覧ください。私の命が笛に代えられるものなら、たちどころに命を取られて、この場で笛になることを選びましょう」

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原文大納言は、瞑目めいもくし、いかずちの裁きを待って、突ったった。はらはらと、涙が流れた。くさむらの虫のなくねが、きこえていた。爽やかな夏の夜風のにおいがした。人の世のあのなつかしい跫音あしおとが、風にまぎれて、胸に通った。

現代語訳大納言は目を閉じ、雷の裁きを待って突っ立った。はらはらと涙が流れた。草むらの虫の鳴く声が聞こえていた。さわやかな夏の夜風のにおいがした。人の世の、あの懐かしい足音が、風にまぎれて胸に届いた。

原文「すでに、このようなことにもなり、小笛が帰らぬ今となっては、私の悔いの一念が笛と化して、月の国へあなたを運ぶよすがともならない限り、あきらめて、この悲しさに堪えて下さい。あなたの嘆きは私の身をそぐばかりでなく、地上のすべてを、暗く濡らしてしまいます。私共のならわしでは、あきらめが人の涙をかわかし、いつか忘れが訪れて、憂きことの多い人の世に、二度の花を運びます。地上の佗わびしいならわしが、さいわいに、あなたの国のならわしでもあり得ますならば、忍び得ぬ嘆きに堪えて、なにとぞ地上にとどまり下さい。償いは、私が、地上で致しましょう。忘れの川、あきらめの野を呼びよせて、必ず涙を涸からしましょう。あなたの悲しみのありさまあなたの涙を再び見ずにすむためならば、靴となって、あなたの足にふまれ、花となって、あなたの髪を飾ることをいといませぬ」

現代語訳「もうこんなことになってしまい、小笛が戻らない今となっては、私の悔やむ思いが笛に変わって、あなたを月の国へ運ぶ手だてにでもならない限り、どうかあきらめて、この悲しさに耐えてください。あなたの嘆きは私の身を削るばかりでなく、地上のすべてを暗くぬらしてしまいます。私たちの習わしでは、あきらめが人の涙を乾かし、いつか忘却が訪れて、つらいことの多い人の世に、もう一度花を運んでくれます。地上のこのわびしい習わしが、幸いにもあなたの国の習わしでもありうるのなら、耐えがたい嘆きに耐えて、どうか地上にとどまってください。償いは私が地上でいたしましょう。忘却の川と、あきらめの野原を呼び寄せて、必ず涙を乾かしましょう。あなたの悲しむ姿、あなたの涙を二度と見ずにすむためなら、靴となってあなたの足に踏まれ、花となってあなたの髪を飾ることもいといません」

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原文天女は、さめざめと泣いていた。

現代語訳天女はさめざめと泣いていた。

原文大納言の官能は一時に燃えた。思わずうろたえ、祈る眼差で、天をさがした。天もなく、月もなかった。あるものは、貧しい家の、暗い、汚い、天井ばかり。かすかな燈火がゆれていた。くらやみへ、祈る眼差を投げ捨てた。あたりが一時に遠のいて、曠野のなかに、心もなかった。血が、ながれた。大納言は、天女にとびかかって、だきすくめた。

現代語訳大納言の官能は、一度に燃え上がった。思わずうろたえ、祈るようなまなざしで天を探した。天もなく、月もなかった。あるのは、貧しい家の暗く汚い天井ばかり。かすかな灯火が揺れていた。暗闇へ、祈るまなざしを投げ捨てた。まわりが一度に遠のいて、荒れ野の中にいるように、心がなくなった。血が流れた。大納言は天女に飛びかかって、抱きすくめた。

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原文大納言は、夜道へさまよい落ちていた。

現代語訳大納言は、夜道へさまよい出ていた。

原文夢の中の、しかと心に覚えられぬ遥かな契ちぎりを結んだことが、遠く、いぶかしく、思われていた。それは悲しみの川となり、からだをめぐり、流れていた。

現代語訳夢の中での、はっきりと心に残っていない遠い契りを結んだことが、遠く、いぶかしく思われた。それは悲しみの川となり、体の中をめぐって流れていた。

原文月はすでに天心をまわり、西の山の端にかたむいていた。

現代語訳月はもう空の真ん中を過ぎ、西の山の端に傾いていた。

原文無限の愛と悔いのみが、すべてであった。それはまた、心を万怒に狂わせた。あらゆる罰を受けるために、その身を岩に投げつけたいと思いもした。

現代語訳限りない愛と後悔だけが、すべてだった。それはまた、心をありとあらゆる怒りに狂わせた。どんな罰でも受けるために、この身を岩に投げつけたいとさえ思った。

原文「天よ。月よ。無道者の命を断とうとは思いませぬか」空に向って、彼は叫んだ。

現代語訳「天よ。月よ。この非道な者の命を絶とうとは思わないのですか」空に向かって、彼は叫んだ。

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原文「私はそれを怖れませぬ。あらゆる報いも、御意のままです。甘んじて、八つざきにもなりましょう。劫火ごうかに焼かれて死ぬことも、いといませぬ。ただ、私には、たったひとつの願いがあります。私は笛をとり返さねばなりません。いいえ、きっと、とり返して、あのひとの手に渡してやります。私は、それを果さぬ限り、死にきれませぬ。いかずちよ。あわれみたまえ。私は命を召されることを怖れているのではありませぬ。あのひとの笛をとって帰るまで、しばしの猶予を与えたまえ」

現代語訳「私はそれを恐れません。どんな報いでも、お心のままに受けます。甘んじて八つ裂きにもなりましょう。世界を焼き尽くす炎に焼かれて死ぬこともいといません。ただ、私にはたった一つの願いがあります。私は笛を取り返さなければなりません。いいえ、きっと取り返して、あの人の手に渡してやります。それを果たさない限り、私は死にきれません。雷よ、哀れんでください。私は命を取られることを恐れているのではありません。あの人の笛を取って帰るまで、しばらくの猶予を与えてください」

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原文どのような手段もつくし、またどのような辛苦にも堪え、きっと小笛をとり返そうと彼は念じた。

現代語訳どんな手段も尽くし、どんな苦労にも耐えて、きっと小笛を取り返そうと彼は心に念じた。

原文彼の歩みは、小笛を奪われたその場所へ、自然に辿りついていた。

現代語訳彼の足は、小笛を奪われたその場所へ、自然とたどり着いていた。

原文然し、谷あいの小径には、もはや盗人の影もなかった。

現代語訳しかし、谷あいの小道には、もう盗賊の姿もなかった。

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原文大納言は途方にくれたが、徒いたずらに迷う心は、もはや彼には許されていない。山の奥へとわけて行けば、やがて盗人に会わないものでもないと思った。草をわけ、枝をわり、夢中に歩いた。

現代語訳大納言は途方に暮れたが、むやみに迷う心は、もう彼には許されていない。山の奥へ分け入っていけば、そのうち盗賊に会えないとも限らないと思った。草をかき分け、枝を折り、夢中で歩いた。

原文もはや自分の歩くところが、どのあたりとも覚えがなかった。山の奥に踏みまよっていた。行くてに笹の繁みをくぐり常に逃げる何物かあり、頭上に蝉がとびたって、逃げまどい、枝にぶつかる音がきこえた。

現代語訳もう自分が歩いているのがどのあたりなのか、見当もつかなかった。山の奥に踏み迷っていた。行く手の笹の茂みをくぐって、いつも何かが逃げていき、頭上では蝉が飛び立って、逃げまどい、枝にぶつかる音が聞こえた。

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原文と、行手はるかに、ののしりどよめく物音が、渡る風に送られて、きこえたような思いがした。たたずんで耳をすますと、まさしく空耳のたぐいではない。音をたよりに忍びよると、木蔭のかなたに焚火をかこむあまたの人の影がみえ、それはまさしく盗人どもにまぎれもなかった。

現代語訳すると、行く手のはるか遠くから、わめき騒ぐ物音が、吹き渡る風に乗って聞こえたような気がした。立ち止まって耳を澄ますと、確かに空耳などではない。音を頼りに忍び寄ると、木陰の向こうに、たき火を囲む大勢の人影が見え、それはまぎれもなく盗賊たちだった。

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原文彼等は酒に酔い痴しれていた。すでに宴も終りと思われ、あたりは狼藉をきわめて、ある者はののしり、ある者は唄い、また、ある者は踊り浮かれていた。

現代語訳彼らは酒に酔いしれていた。もう宴も終わりかけと思われ、あたりは散らかし放題で、ある者はわめき、ある者は歌い、またある者は浮かれて踊っていた。

原文ぬすびととねずみは、三輪の神とおなじくて、おだ巻のいとのひとすじに、よるをのみこそたのしめ。

現代語訳(盗賊たちの歌)盗人とねずみは、三輪山の神と同じこと。苧環の糸を「縒る」ではないが、ひたすら「夜」ばかりを楽しむものだ。

原文大納言は最も近い木蔭まで忍びよって、さしのぞいた。彼等の獲物と覚おぼしきものを物色したが、遠い夜目にはさだかに見える筈がなく、小笛のありかを突きとめることができなかった。また、どの賊が、彼の小笛を奪った者とも知れなかった。

現代語訳大納言はいちばん近い木陰まで忍び寄って、のぞき込んだ。彼らの獲物らしいものを探してみたが、遠い夜目にははっきり見えるはずもなく、小笛のありかを突き止めることはできなかった。また、どの盗賊が彼の小笛を奪った者なのかも分からなかった。

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原文大納言は、すすみでて、叫んだ。

現代語訳大納言は進み出て、叫んだ。

原文「私に見覚えの者はいないか。さっき、谷あいの径で、小笛、太刀、衣等を奪われた者が、私だ。あれはたしかに、おまえたちの一味であったにちがいはあるまい。小笛を奪った覚えの者は、名乗りでてくれ。太刀も衣もいらないが、小笛だけが所望なのだ。その代りには、おまえたちの望みのものを差上げよう。あの小笛には仔細しさいがあって、余人にはただの小笛にすぎないが、私にとっては、すべての宝とかえることも敢て辞さないものなのだ。おまえたちが望むなら、私は、あしたこの場所へ、牛車一台の財宝をとどけることも惜しがるまい」

現代語訳「私に見覚えのある者はいないか。さっき谷あいの小道で、小笛や太刀や着物などを奪われた者が私だ。あれは確かにお前たちの仲間だったに違いあるまい。小笛を奪った覚えのある者は名乗り出てくれ。太刀も着物もいらないが、小笛だけが欲しいのだ。その代わりに、お前たちの望みのものを差し上げよう。あの小笛にはわけがあって、ほかの者にはただの小笛にすぎないが、私にとっては、あらゆる宝と引き換えにしてもかまわないものなのだ。お前たちが望むなら、私は明日この場所へ、牛車一台分の財宝を届けることも惜しみはしない」

原文ひとりの者がすすみでて、まず、物も言わず、大納言を打ちすえた。と、ひとりの者は、うしろから、大納言の腰を蹴った。大納言はひとつの黒いかたまりとなり、地の中へとびこむように宙を走って、焚火のかたわらにころがっていた。

現代語訳一人の男が進み出て、まず何も言わずに大納言を殴りつけた。すると別の一人が、後ろから大納言の腰を蹴った。大納言はひとつの黒いかたまりとなり、地面の中へ飛び込むように宙を飛んで、たき火のそばに転がった。

原文「望みのものをやろうとは、こやつ、却々なかなか、いいことを言うた」ひとりが大納言をねじふせて、打ちすえながら、言った。「牛車に一台の財宝があるなら、なるほど、あしたこの場所へとどけてうせえ。ぬすびとが貰ったものを返そうなら、地獄の魔王も亡者の命を返してくれよう。まず、ぬすびとの御馳走をくえ」

現代語訳「望みのものをやろうとは、こいつ、なかなかいいことを言うじゃないか」一人が大納言をねじ伏せて殴りながら言った。「牛車一台分の財宝があるなら、なるほど、明日この場所へ届けてきやがれ。盗人がもらったものを返すくらいなら、地獄の閻魔様だって死人の命を返してくれるだろうよ。まずは盗人のごちそうを食らえ」

原文彼等は手に手に榾柮ほだをとり、ところかまわず大納言を打ちのめした。衣はさけ、飛びちる火粉は背に落ちたが、すでに、大納言は意識がなかった。

現代語訳彼らは手に手に薪の燃えさしを取り、所かまわず大納言を打ちのめした。着物は裂け、飛び散る火の粉は背中に落ちたが、大納言はもう意識がなかった。

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原文もはや動かぬ大納言のありさまをみて、盗人たちは、はじめて打つことに飽きだしていた。ひとり、ふたり、彼等は自然に榾柮をなげた。そうして、いちばん最後まで榾柮をすてずにいたひとりが、榾柮の先に火をつけて、大納言のあらわな股にさしつけた。大納言は必死に逃げているのであろうが、びくびくと、ようやく芋虫のうごめきにすぎないところの反応をみると、盗人たちは声をそろえて、笑いどよめき、大納言を木立の蔭へ蹴ころがした。思いがけなく現れた当座の酒興にたんのうして、物言うことも重たげに、盗人たちはあたりのものをとりまとめて、いずこともなく立去った。

現代語訳もう動かなくなった大納言の様子を見て、盗賊たちはようやく殴ることに飽きてきた。一人、二人と、彼らは自然に薪を投げ捨てた。そして、最後まで薪を捨てずにいた一人が、薪の先に火をつけて、大納言のむき出しの太ももに押しつけた。大納言は必死に逃げているつもりなのだろうが、びくびくと、ようやく芋虫がうごめく程度の反応しかないのを見ると、盗賊たちは声をそろえてどっと笑い、大納言を木立の陰へ蹴転がした。思いがけず現れたその場の酒の余興に満足して、口をきくのもおっくうそうに、盗賊たちはあたりの物をまとめて、どこへともなく立ち去った。

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原文ほどへて、大納言は意識をとりもどした。すでに焚火も消えようとして、からくも火屑を残すばかり、あたりに暗闇がかえろうとしていた。

現代語訳しばらくして、大納言は意識を取り戻した。たき火はもう消えかかって、わずかに燃えかすを残すばかり、あたりには暗闇が戻ろうとしていた。

原文大納言は、今いる場所、今いる立場がわからなかった。やがて、自然にわかりかけてきたのであったが、分ろうとする執着もなく、その想念をたどる気力も失われていた。視覚もかすれ、また聴覚もとざされて、つめたい闇がはりつめているばかりであった。ただひとすじに、天女のかたち、ありさまと、その悲しみのせつなさを、くらやみのうつろの果に、ありありとみた。彼の手が動くことを知ったとき、わが身のまわりに、小笛のありかをたずねてみた。手の当るあらゆる場所を、さぐり、つかんだ。そうして、絶望の悲哀にかられた。

現代語訳大納言は、自分が今いる場所も、今の自分の立場も分からなかった。やがて自然に分かりかけてはきたのだが、分かろうとする執着もなく、その考えをたどる気力も失われていた。目もかすみ、耳も閉ざされて、冷たい闇が張りつめているばかりだった。ただひたすら、天女の姿と様子と、その悲しみのせつなさだけを、暗闇のうつろな果てに、ありありと見た。自分の手が動くと分かったとき、身のまわりに小笛がないかと探ってみた。手の届くあらゆる場所を探り、つかんだ。そして、絶望の悲しみに駆られた。

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原文喉がかわいて、焼くようだった。ひとしずくの水となるなら、土もしぼって飲みたかった。彼は夢中に這いだした。そうして、ようやく、谷川のせせらぐ音を耳にした。

現代語訳喉が渇いて、焼けつくようだった。一滴の水になるのなら、土でも絞って飲みたかった。彼は夢中ではい出した。そしてようやく、谷川のせせらぎの音を耳にした。

原文大納言は、谷音をたよりに、這った。横ざまに倒れ、また這い、また、倒れるうちに、ようやく視覚も戻ってきたが、谷音は、右にもきこえ、左にもきこえ、うしろにもきこえて、さだかではなかった。風のいたずらでなければ、耳鳴にすぎないのかも知れなかった。あらゆることが絶望だと彼は思った。

現代語訳大納言は、谷川の音を頼りにはっていった。横ざまに倒れ、またはい、また倒れるうちに、ようやく目も見えるようになってきたが、谷川の音は右にも聞こえ、左にも聞こえ、後ろにも聞こえて、はっきりしなかった。風のいたずらでなければ、耳鳴りにすぎないのかもしれなかった。何もかもが絶望だと彼は思った。

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原文大納言は、木の根に縋すがって這い起きたが、歩く力はまったくなかった。彼は木の根に腰を下して、てのひらに顔を掩おおうた。死ぬことは、悲しくなかった。短い一生ではあった。酔生夢死。ただそれだけのことだった。然し、そのことに、悔いはなかった。ただ、あの笛をあのひとに返さぬうちは、この悲しみの尽きるときがない筈だった。彼は泣いた。ただ、さめざめと。

現代語訳大納言は木の根にすがってはい起きたが、歩く力はまったくなかった。彼は木の根に腰を下ろして、手のひらで顔を覆った。死ぬことは悲しくなかった。短い一生ではあった。酒に酔い、夢を見ているような心地で、何もなさずに一生を過ごしてきた。ただそれだけのことだった。しかし、それを悔やむ気持ちはなかった。ただ、あの笛をあの人に返さないうちは、この悲しみが尽きることはないはずだった。彼は泣いた。ただ、さめざめと。

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原文と、鼻さきに、とつぜん物の気配を感じて、大納言はてのひらを外し、その顔をあげた。すぐ目のさきの叢くさむらの上に、ひとりの童子があぐらをくんでいるのである。たしかに童子にまぎれもないが、粗末な衣服を身にまとい、クシャクシャと目鼻の寄った顔立は、大人、いや、むしろ老爺のようである。髪の毛は河童かっぱのように垂れさがり、傲慢に腕を組み、からかうような笑いを浮べて、すまして顔をのぞいている。視線が合ったが、平然として、ただ、しげしげと顔をみている。

現代語訳すると、鼻先に突然何かの気配を感じて、大納言は手のひらを外して顔を上げた。すぐ目の前の草むらの上に、一人の子どもがあぐらをかいているのである。確かに子どもには違いないが、粗末な着物を身にまとい、くしゃくしゃと目鼻の寄った顔立ちは、大人、いや、むしろ老人のようである。髪の毛は河童のように垂れ下がり、偉そうに腕を組み、からかうような笑いを浮かべて、すまし顔でこちらの顔をのぞき込んでいる。目が合ったが平然として、ただじろじろと顔を見ている。

原文「ゆくえも知らぬ――」

現代語訳「ゆくえも知らぬ――」

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原文と、童子は大きな口をあけて、とつぜん唄った。ひどく大きな口だった。そのせいか、目と鼻が、更に小さくクシャクシャ縮んで、かたまった。

現代語訳と、子どもは大きな口を開けて、突然歌った。ひどく大きな口だった。そのせいか、目と鼻がさらに小さくくしゃくしゃに縮んで、固まった。

原文大納言は、びっくりした。と、とたんに童子は猿臂えんぴをのばして、大納言の鼻さきを、二本の指でちょいとつまんだ。

現代語訳大納言はびっくりした。すると、とたんに子どもは長い腕を伸ばして、大納言の鼻先を二本の指でちょいとつまんだ。

原文「恋のみちかな」

現代語訳「恋のみちかな」

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原文童子は下の句をつけたした。そうして、手をうち、自分の頬をピシャピシャたたき、彼を指し、大きな口を開いて、笑った。

現代語訳子どもは和歌の下の句を付け足した。そして手をたたき、自分の頬をぴしゃぴしゃたたき、彼を指さして、大きな口を開けて笑った。

原文「ゆくえも知らぬ、恋のみちかな」

現代語訳「ゆくえも知らぬ、恋のみちかな」(行き先も分からない、恋の道だなあ)

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原文再び、童子は、大納言の鼻をつまんだ。予測しがたい素早さである。身をかわすひまはなかった。アと思うまに、もう手をたたいて、唄っている。

現代語訳再び、子どもは大納言の鼻をつまんだ。予測できない素早さである。身をかわす暇はなかった。あっと思う間に、もう手をたたいて歌っている。

原文ひどく不潔な顔である。猿の目鼻をクシャクシャとひとつにまとめた顔である。そうして、顔中、皺である。動作は、甚だ下品であった。正視に堪えぬ思いがした。

現代語訳ひどく不潔な顔である。猿の目鼻をくしゃくしゃと一つにまとめたような顔である。そして顔じゅうしわだらけである。しぐさはひどく下品だった。まともに見ていられない気がした。

原文と、ひょいと童子の立上るのを見た筈だったが、そのとき童子はにやりと笑い、目も鼻も大きな口も、突然ひとつにグシャグシャちぢんだ筈だった。とたんに、するりとからだがすぼんで、童子の姿は忽然こつぜん地下へ吸いこまれた。一瞬にして、姿もなく、あとに残る煙もない。あとにひろがる叢の上に、この季節にはふさわしからぬ大きな蕈きのこが残っていた。

現代語訳と、ひょいと子どもが立ち上がるのを見たはずだったが、そのとき子どもはにやりと笑い、目も鼻も大きな口も、突然一つにぐしゃぐしゃと縮んだはずだった。とたんにするりと体がすぼまって、子どもの姿はたちまち地面の下へ吸い込まれた。一瞬にして姿もなく、後に残る煙もない。後に広がる草むらの上には、この季節にはふさわしくない大きなきのこが残っていた。

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原文大納言は呆然として、目を疑った。彼は思わず這いよって、蕈にさわってみようとした。

現代語訳大納言はぼう然として、自分の目を疑った。彼は思わずはい寄って、きのこに触ってみようとした。

原文突然四方に笑声が起った。

現代語訳突然、四方から笑い声が起こった。

原文大納言は驚いて顔をあげたが、笑う者の姿はなかった。笑いは忽たちまち身近にせまり、木の根に起り、また、足もとの叢に起った。いつか遠く全山にひろがりわたり、頭上の枝から、また、耳もとから、げたげたひびいた。

現代語訳大納言は驚いて顔を上げたが、笑っている者の姿はなかった。笑い声はたちまち身近に迫り、木の根もとから起こり、また足もとの草むらから起こった。いつのまにか遠く山全体に広がり、頭上の枝から、また耳もとから、げたげたと響いた。

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原文大納言はからだの痛みを打ち忘れて、とつぜん立って、逃げようとした。然し、傷ついた全身は、咄嗟とっさの恐怖にはじかれてすら、なお、思うようには動かなかった。つまずいて、立ちあがり、また、つまずいて、からくも立ちあがることを繰返すうちに、再び意識を失って、冷めたい木の根に伏していた。

現代語訳大納言は体の痛みも忘れて、突然立ち上がって逃げようとした。しかし傷ついた全身は、とっさの恐怖に弾かれてさえ、思うようには動かなかった。つまずいては立ち上がり、またつまずいては、やっとのことで立ち上がることを繰り返すうちに、再び意識を失って、冷たい木の根に倒れ伏していた。

原文みたび我に返ったとき、山々は、すでに白日の光のもとに、青々と真夏の姿を映していた。木のまを通してふりそそぐ小さな陽射しが、地に伏した彼のからだにもこぼれていた。

現代語訳三度目に我に返ったとき、山々はもう真昼の光の下で、青々とした真夏の姿を見せていた。木々の間から降り注ぐ小さな日差しが、地に伏した彼の体にもこぼれていた。

原文大納言は再び喉を焼くような激しい乾きに苦しんだ。谷川の音をたよりに、必死に這った。谷川は崖の下にせせらいでいた。大納言は降りようとして、転落した。岩にぶつかり、脾腹ひばらをうって、うちうめいた。

現代語訳大納言は再び、喉を焼くような激しい渇きに苦しんだ。谷川の音を頼りに、必死にはった。谷川は崖の下を流れていた。大納言は降りようとして転げ落ちた。岩にぶつかり、わき腹を打って、うめいた。

原文草をむしり、岩をつかみ、夢中に這った。ようやく、せせらぎの上へ首を延ばすことができたとき、顔からふきだす真赤な血潮が、せせらぎへバシャバシャ落ちた。大納言は、さすがに、ふるえた。せせらぎに映る顔をみた。人の世のものとも見えず、黒々と腫はれ、真赤な口をひらいていた。一時に、心がすくみ、消えた。

現代語訳草をむしり、岩をつかみ、夢中ではった。ようやく流れの上に首を伸ばすことができたとき、顔から噴き出す真っ赤な血が、流れにばしゃばしゃと落ちた。大納言はさすがに震えた。流れに映る自分の顔を見た。この世のものとも思えず、黒々と腫れ上がり、真っ赤な口を開いていた。一度に心がすくみ、消えた。

原文すでに、すべてが、絶望だった。背筋を走る悲しさが、つきあげた。

現代語訳もう、何もかもが絶望だった。背筋を走る悲しさが、突き上げてきた。

原文「私はここで、今、死にます」大納言は絶叫した。「私が死んでいいのでしょうか! 私の命は、つゆ惜しいとは思いませぬ。残されたあなたは、どうなるのですか! せめて、ひとめ、あなたが、見たい! 人の一念が通るなら、水に顔をうつして下さい!」

現代語訳「私はここで、今、死にます」大納言は絶叫した。「私が死んでいいのでしょうか! 私の命は少しも惜しいとは思いません。残されたあなたはどうなるのですか! せめてひと目、あなたに会いたい! 人の一念が通じるなら、水にあなたの顔を映してください!」

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原文大納言は水をみた。真赤な口をひらいた顔があるばかり。せせらぐたびに、赤い口もゆがんで、のびて、血が走り、さんさんと水は流れた。

現代語訳大納言は水を見た。真っ赤な口を開いた顔があるばかり。流れが揺れるたびに、赤い口もゆがみ、伸びて、血が走り、水はさらさらと流れていった。

原文私は、ここに、このような、あさましい姿となっているのです。しかも、あなたの悲しさの一分すらも、うすめることができずに。あなたは、いま、どこに、どのようにして、いられますか。もはや、お目覚めのことでしょうね。このうすぎたない地上でも、あなたの目覚めに、なお、いくらかは優しい慰めを与えたものがあったでしょうか。もう、郭公かっこうも、ほととぎすも、鳴く季節ではありません。せめて、うららかな天日が、夜の嘆きを、いくらか晴らしはしませんでしたか。また、一夜のねむりが、悲しさを、いくらか和やわらげはしませんでしたか。ああ、どうしていいのか、私は、もはや、わからない……

現代語訳私はここで、このような浅ましい姿になっているのです。しかも、あなたの悲しさのほんの一部さえ、薄めることができないままに。あなたは今、どこで、どうしていらっしゃいますか。もうお目覚めのころでしょうね。このうす汚い地上でも、あなたの目覚めに、まだいくらかは優しい慰めを与えたものがあったでしょうか。もう、かっこうも、ほととぎすも鳴く季節ではありません。せめて、うららかなお日さまが、夜の嘆きをいくらか晴らしてはくれませんでしたか。また、一晩の眠りが、悲しさをいくらか和らげてはくれませんでしたか。ああ、どうしたらいいのか、私にはもう分からない……

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原文大納言は、てのひらに水をすくい、がつがつと、それを一気に飲もうとして、顔をよせた。と、彼のからだは、わがてのひらの水の中へ、頭を先にするりとばかりすべりこみ、そこに溢あふれるただ一掬いっきくの水となり、せせらぎへ、ばちゃりと落ちて、流れてしまった。

現代語訳大納言は、手のひらに水をすくい、むさぼるように一気に飲もうとして、顔を寄せた。すると、彼の体は、自分の手のひらの水の中へ、頭からするりと滑り込み、そこにあふれるたった一すくいの水となって、流れの中へぱちゃりと落ち、流れていってしまった。

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原文について

原文は青空文庫のテキストをもとにしています(ルビも表示しています)。入力・校正にあたられたボランティアの皆さんに感謝します。

  • 底本:「坂口安吾全集3」ちくま文庫、筑摩書房
  • 入力:花菱蓮
  • 校正:小林繁雄
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