原文と現代語訳の対照
『文字禍』現代語訳(全文)
著者: 中島敦
青空文庫の原文を段落ごとに区切り、隣に現代語訳を並べました。読みにくい言い回しは現代語訳で、言葉の響きは原文で味わえます。場面の段落には、その場面を描いた漫画ページへのリンクがあります。
この現代語訳は、生成AIが原文をもとに作成し、段落ごとに原文と照合したものです。学術的な訳注ではありません。正確な表現や解釈は、原文でお確かめください。
漫画で読む(無料)原文文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
現代語訳文字の霊などというものが、いったい存在するのだろうか、どうだろうか。
原文アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。
現代語訳アッシリヤ人は数えきれないほどの精霊を知っている。夜、闇の中を暴れ回るリル、その雌のリリツ、疫病をまき散らすナムタル、死者の霊エティンム、人さらいのラバスなど、数知れない悪霊たちがアッシリヤの空に満ちあふれている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。
原文その頃――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷に妙な噂があった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという。王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛がバビロンの落城でようやく鎮まったばかりのこととて、何かまた、不逞の徒の陰謀ではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。どうしても何かの精霊どもの話し声に違いない。最近に王の前で処刑されたバビロンからの俘囚共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にも判る。千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜いて殺され、その舌を集めたところ、小さな築山が出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。星占や羊肝卜で空しく探索した後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目判らない。アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。
現代語訳そのころ――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世二十年目のころのことだが――都ニネヴェの宮廷に妙な噂が立った。毎晩、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするというのである。王の兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀反が、バビロンの陥落によってようやく鎮まったばかりのことなので、また何か不届き者たちの陰謀ではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。どうしても何かの精霊たちの話し声に違いない。最近、王の前で処刑されたバビロンからの捕虜たちの死霊の声だろうと言う者もいたが、それが本当でないことは誰にでも分かる。千人を超えるバビロンの捕虜は一人残らず舌を抜かれて殺され、その舌を集めたら小さな築山ができたというのは、誰もが知っている事実である。舌のない死霊がしゃべれるはずがない。星占いや羊の肝臓による占いでむなしく探った後、これはどうしても書物たち、あるいは文字たちの話し声だと考えるほかはなくなった。ただ、文字の霊(というものがあるとして)がどんな性質を持つものなのか、それがまったく分からない。アシュル・バニ・アパル大王は、目が大きく縮れ毛の老博士ナブ・アヘ・エリバを呼び寄せ、この未知の精霊について研究するようお命じになった。
原文その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没し、更に二千三百年にして偶然発掘される運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。両河地方では埃及と違って紙草を産しない。人々は、粘土の板に硬筆をもって複雑な楔形の符号を彫りつけておった。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。老博士の卓子(その脚には、本物の獅子の足が、爪さえそのままに使われている)の上には、毎日、累々たる瓦の山がうずたかく積まれた。それら重量ある古知識の中から、彼は、文字の霊についての説を見出そうとしたが、無駄であった。文字はボルシッパなるナブウの神の司りたもう所とより外には何事も記されていないのである。文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨めっこをして過した。卜者は羊の肝臓を凝視することによってすべての事象を直観する。彼もこれに倣って凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。その中に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。老儒ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚いた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。彼は眼から鱗の落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
現代語訳その日から、ナブ・アヘ・エリバ博士は、毎日その問題の図書館(それは、その後二百年で地下に埋もれ、さらに二千三百年後に偶然発掘されるという運命を持つものなのだが)に通い、膨大な数の書物に目を通しながら研究にふけった。チグリス・ユーフラテス両河の地方では、エジプトと違ってパピルス(紙草)がとれない。人々は粘土の板に、硬い筆で複雑なくさび形の記号を刻みつけていた。書物は瓦のようなもので、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。老博士の机(その脚には本物のライオンの足が、爪までそのまま使われている)の上には、毎日、瓦の山がうずたかく積み上げられた。それらの重たい古い知識の中から、彼は文字の霊についての説を見つけ出そうとしたが、無駄だった。文字はボルシッパの町のナブウの神がつかさどっておられるもの、ということのほかには、何も記されていないのである。文字に霊があるかないかを、彼は自力で解決しなければならない。博士は書物から離れ、ただ一つの文字を前にして、一日じゅうそれとにらめっこをして過ごした。占い師は羊の肝臓をじっと見つめることによって、あらゆる物事を直観で見抜く。彼もこれにならって、じっと見つめ、静かに観察することによって真実を見つけ出そうとしたのである。そのうちに、おかしなことが起こった。一つの文字を長く見つめているうちに、いつのまにかその文字がばらばらになり、意味のない一本一本の線の組み合わせにしか見えなくなってくる。ただの線の集まりが、なぜそういう音と、そういう意味とを持つことができるのか、どうしても分からなくなってくる。老学者ナブ・アヘ・エリバは、生まれて初めてこの不思議な事実を発見して驚いた。今まで七十年の間、当たり前だと思って見過ごしていたことが、決して当たり前でも必然でもない。彼は目からうろこが落ちる思いがした。ただのばらばらの線に、決まった音と決まった意味とを持たせるものは何なのか? ここまで考えが至ったとき、老博士はためらうことなく、文字の霊の存在を認めた。魂によってまとめられていない手・足・頭・爪・腹などが人間ではないように、一つの霊がまとめているのでなければ、どうしてただの線の集まりが音と意味を持つことができようか。
原文この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。
現代語訳この発見を手始めに、今まで知られていなかった文字の霊の性質が、少しずつ分かってきた。文字の精霊の数は、地上にある物事の数と同じくらい多い。文字の精は、野ねずみのように子を産んで増えていく。
原文ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用を明らかにしようというのである。さて、こうして、おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に多い。「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰イアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ、中ノ実ヲ巧ニ喰イツクスガ如シ」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌した。文字を覚えて以来、咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者なども、かなりの数に上る。「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」と、老博士はまた誌した。文字を覚えてから、にわかに頭髪の薄くなった者もいる。脚の弱くなった者、手足の顫えるようになった者、顎がはずれ易くなった者もいる。しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ痲痺セシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳を越した老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
現代語訳ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの町じゅうを歩き回り、最近文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一人一人に尋ねた。文字を知る前と比べて、何か変わったところはないか、と。これによって、文字の霊が人間に及ぼす作用を明らかにしようというのである。さて、こうしておかしな統計ができあがった。それによると、文字を覚えてから急に虱を取るのが下手になった者、目にほこりがよく入るようになった者、今までよく見えていた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど青くなくなったという者などが、圧倒的に多い。「文字の精が人間の目を食い荒らすことは、ちょうど、うじ虫がくるみの固い殻に穴をあけて、中の実をたくみに食い尽くすようなものである」と、ナブ・アヘ・エリバは新しい粘土の備忘録に記した。文字を覚えてから咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりがたびたび出るようになった者、下痢をするようになった者なども、かなりの数にのぼる。「文字の精は、人間の鼻・のど・腹なども冒すものらしい」と、老博士はまた記した。文字を覚えてから、急に髪の毛が薄くなった者もいる。足が弱くなった者、手足が震えるようになった者、あごが外れやすくなった者もいる。しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かなければならなかった。「文字の害は、人間の頭脳を冒し、精神を麻痺させるに至って、その極みに達する」。文字を覚える前と比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師はライオンを射損じることが多くなった。これは統計がはっきり示すところである。文字に親しむようになってから、女を抱いてもいっこうに楽しくなくなった、という訴えもあった。もっとも、こう言い出したのは七十歳を超えた老人なので、これは文字のせいではないかもしれない。ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。エジプト人は、ある物の影をその物の魂の一部とみなしているようだが、文字とは、その影のようなものではないのか。
原文獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
現代語訳「獅子」という字は、本物の獅子の影ではないのか。だから、「獅子」という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代わりに獅子の影を狙い、「女」という字を覚えた男は、本物の女の代わりに女の影を抱くようになるのではないか。文字がなかった昔、ピル・ナピシュチムの洪水よりも前には、喜びも知恵も、みんな直接に人間の中に入ってきた。今では、文字という薄いベールをかぶった、喜びの影と知恵の影しか、我々は知らない。近ごろ人々は物覚えが悪くなった。これも文字の精のいたずらである。人々はもはや、書き留めておかなければ、何一つ覚えることができない。着物を着るようになって、人間の皮膚は弱く醜くなった。乗り物が発明されて、人間の足は弱く醜くなった。文字が広まって、人々の頭は、もう働かなくなったのである。
原文ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂の老人を知っている。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草や羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュを慰めた言葉をも諳んじている。しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后、サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。何と彼は文字と書物とを愛したであろう! 読み、諳んじ、愛撫するだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕き、水に溶かして飲んでしまったことがある。文字の精は彼の眼を容赦なく喰い荒し、彼は、ひどい近眼である。余り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲形の鼻の先は、粘土板と擦れ合って固い胼胝が出来ている。文字の精は、また、彼の脊骨をも蝕み、彼は、臍に顎のくっつきそうな傴僂である。しかし、彼は、恐らく自分が傴僂であることを知らないであろう。傴僂という字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者の第一に数えた。ただ、こうした外観の惨めさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨ましいほど――いつも幸福そうに見える。これが不審といえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬のごとき奸猾な魔力のせいと見做した。
現代語訳ナブ・アヘ・エリバは、ある書物好きの度を越した老人を知っている。その老人は、博識なナブ・アヘ・エリバよりもさらに博識である。彼はスメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、パピルスや羊の皮に記されたエジプト文字まで、すらすらと読む。およそ文字に書かれた古代のことで、彼の知らないことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世何年目の何月何日の天気まで知っている。しかし、今日の天気が晴れか曇りかには気がつかない。彼は、少女サビツが英雄ギルガメシュを慰めた言葉さえ暗記している。しかし、息子を亡くした隣人を何と言って慰めればよいのかを知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。しかし、自分が今どんな服を着ているのかには、まるで気がついていない。彼はなんと文字と書物を愛したことだろう! 読み、暗記し、なでさするだけでは飽き足らず、愛するあまりに、ギルガメシュ伝説の最も古い版の粘土板をかみ砕き、水に溶かして飲んでしまったことさえある。文字の精は彼の目を容赦なく食い荒らし、彼はひどい近眼である。あまりに目を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲のような鼻の先は粘土板とこすれ合って、固いたこができている。文字の精はまた、彼の背骨もむしばみ、彼はへそにあごがくっつきそうなほど背中が曲がっている。しかし彼は、おそらく自分の背中が曲がっていることを知らないだろう。「背中の曲がった人」を表す字なら、彼は五つの異なる国の文字で書くことができるのだが。ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を文字の精霊の犠牲者の第一に数えた。ただ、こうした外見のみじめさにもかかわらず、この老人は実に――まったくうらやましいほど――いつも幸せそうに見える。これは不思議といえば不思議だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の、ほれ薬のようなずる賢い魔力のせいだとみなした。
原文たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹られた。侍医のアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王のご衣裳を借り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に扮した。これによって、死神エレシュキガルの眼を欺き、病を大王から己の身に転じようというのである。この古来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信の眼を向ける者がある。これは明らかに不合理だ、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子供瞞しの計に欺かれるはずがあるか、と、彼等は言う。碩学ナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて厭な顔をした。青年等のごとく、何事にも辻褄を合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。全身垢まみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾っているような、そういうおかしな所が。彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。老博士は浅薄な合理主義を一種の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。
現代語訳たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病気にかかられた。侍医のアラッド・ナナは、この病は軽くないとみて、大王の衣装を借りて自分がそれを身にまとい、アッシリヤ王になりすました。こうして死の女神エレシュキガルの目を欺き、病を大王から自分の身に移そうというのである。この昔からの医者のしきたりに対して、若者たちの一部には疑いの目を向ける者がいる。これは明らかに理屈に合わない、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子どもだましの計略に欺かれるはずがあるか、と彼らは言う。大学者ナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて嫌な顔をした。若者たちのように、何事にもつじつまを合わせたがることの中には、何かおかしなところがある。全身あかまみれの男が、一か所だけ、たとえば足のつま先だけを、むやみに美しく飾っているような、そういうおかしなところが。彼らは、神秘の雲に包まれた世界の中での人間の立場をわきまえておらんのじゃ。老博士は、浅はかな合理主義を一種の病気だと考えた。そして、その病気をはやらせたのは、疑いもなく文字の精霊である。
原文ある日若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや? と。老博士が呆れた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期について色々な説がある。自ら火に投じたことだけは確かだが、最後の一月ほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩の生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎してシャマシュ神に祈り続けたというものもある。第一の妃ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾を薪の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。何しろ文字通り煙になったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じたもうであろう。これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。
現代語訳ある日、若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねてきて、老博士に言った。歴史とは何でしょうか? と。老博士があきれた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。先ごろのバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期についてはいろいろな説があります。自ら火に身を投じたことだけは確かですが、最後の一か月ほどの間、絶望のあまり言葉にできないほどみだらな生活を送ったという者もいれば、毎日ひたすら身を清めてシャマシュ神に祈り続けたという者もいます。第一の妃ただ一人と一緒に火に入ったという説もあれば、数百人の侍女や側女を薪の火に投げ込んでから自分も火に入ったという説もあります。なにしろ文字どおり煙になってしまったので、どれが正しいのか、まったく見当がつきません。近いうちに大王はその中の一つを選んで、私にそれを記録するようお命じになるでしょう。これはほんの一例ですが、歴史とはこれでいいのでしょうか。
原文賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
現代語訳賢い老博士が賢く沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のように質問を変えた。歴史とは、昔、実際にあった出来事のことを言うのでしょうか? それとも、粘土板に書かれた文字のことを言うのでしょうか?
原文獅子狩と、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。この二つは同じことではないか。
現代語訳この問いには、獅子狩りと、獅子狩りを彫った浮き彫りとを混同しているようなところがある。博士はそれを感じたが、はっきりと言葉にできないので、次のように答えた。歴史とは、昔あった出来事で、なおかつ粘土板に記されたものである。この二つは同じことではないか。
原文書洩らしは? と歴史家が聞く。
現代語訳書き漏らしたことは? と歴史家が尋ねる。
原文書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
現代語訳書き漏らし? 冗談ではない。書かれなかったことは、なかったことじゃ。芽の出なかった種は、結局、初めからなかったのじゃよ。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
原文若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行の一枚である。話しながら博士の吐き棄てた柘榴の種子がその表面に汚らしくくっついている。
現代語訳若い歴史家は情けなさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。それは、この国で最も偉大な歴史家ナブ・シャリム・シュヌが記した、サルゴン王のハルディア遠征の記録の一枚である。話しながら博士が吐き捨てたざくろの種が、その表面に汚らしくくっついている。
原文ボルシッパなる明智の神ナブウの召使いたもう文字の精霊共の恐しい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒が降るのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が禍を蒙るのも、皆、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕じゃ。しかし、また、彼等精霊の齎す害も随分ひどい。わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気に中ったためであろう。
現代語訳ボルシッパにまします知恵の神ナブウがお使いになる文字の精霊たちの恐ろしい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らないとみえるな。文字の精たちが、いったんある出来事をつかまえて、それを自分たちの姿で表すとなると、その出来事は、もはや不滅の命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、どんなものでも、その存在を失わなければならない。大昔からのアヌ・エンリルの書(天文の書)に書き上げられていない星は、なぜ存在しないのか? それは、その星たちがアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天の羊飼い(オリオン)の領分を侵せば神々の怒りが下るのも、月の上の部分が欠ければフモオル人が災いを受けるのも、みな、古い書物に文字として記されているからこそじゃ。古代スメリヤ人が馬という獣を知らなかったのも、彼らの間に「馬」という字がなかったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものはない。君やわしらが文字を使って書きものをしているなどと思ったら大間違い。わしらこそ、文字の精霊たちにこき使われている召使いなのじゃ。しかしまた、精霊たちがもたらす害もずいぶんひどい。わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を記した文字に疑いを感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみすぎて、その霊の毒気に当たったためだろう。
原文若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為な青年をも害おうとしていることを悲しんだ。文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑を抱くことは、決して矛盾ではない。先日博士は生来の健啖に任せて羊の炙肉をほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。
現代語訳若い歴史家は妙な顔をして帰っていった。老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒が、あの将来有望な青年までもむしばもうとしていることを悲しんだ。文字に親しみすぎて、かえって文字に疑いを抱くようになるのは、決して矛盾ではない。先日、博士は生まれつきの大食いにまかせて、羊の焼き肉をほとんど一頭分も平らげたが、その後しばらくは、生きている羊の顔を見るのも嫌になったことがある。
原文青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮れっ毛の頭を抑えて考え込んだ。今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力を讃美しはせなんだか? いまいましいことだ、と彼は舌打をした。わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。
現代語訳青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふとナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮れ毛の頭を押さえて考え込んだ。今日は、どうやら、わしはあの青年に向かって、文字の霊の威力をほめたたえてしまったのではないか? いまいましいことだ、と彼は舌打ちした。わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。
原文実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮した時以来のことである。その時、今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。彼は怖くなって、早々に研究報告を纏め上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献じた。但し、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。しかも、これに気付いている者はほとんど無い。今にして文字への盲目的崇拝を改めずんば、後に臍を噬むとも及ばぬであろう云々。
現代語訳実際、もうだいぶ前から、文字の霊は、ある恐ろしい病を老博士にもたらしていたのである。それは、彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を何日もじっとにらんで過ごしたとき以来のことである。そのとき、今まで決まった意味と音とを持っていたはずの字が、突然ばらばらになって、ただの直線の集まりになってしまったことは前に述べたとおりだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起こるようになった。彼が一軒の家をじっと見ているうちに、その家は、彼の目と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰の意味のない集まりに化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならないのか、分からなくなる。人間の体を見ても同じことである。みんな、意味のない奇怪な形をした部分部分に分解されてしまう。どうしてこんな格好をしたものが人間として通用しているのか、まるで理解できなくなる。目に見えるものばかりではない。人間の日々の営み、あらゆる習慣が、同じ奇妙な分解病のために、それまでの意味をすっかり失ってしまった。もはや、人間の生活のすべての土台が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は、気が狂いそうになってきた。文字の霊の研究をこれ以上続けたら、しまいにはその霊のために命を取られてしまうぞ、と思った。彼は怖くなって、急いで研究報告をまとめ上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献上した。ただし、その中に、いくらかの政治的な意見を加えたことはもちろんである。武の国アッシリヤは今や、目に見えない文字の精霊のために、すっかりむしばまれてしまった。しかも、これに気づいている者はほとんどいない。今のうちに文字への盲目的な崇拝を改めなければ、後で悔やんでも取り返しがつかないだろう、などと。
原文文字の霊が、この讒謗者をただで置く訳が無い。ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌を損じた。ナブウ神の熱烈な讃仰者で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。老博士は即日謹慎を命ぜられた。大王の幼時からの師傅たるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥に処せられたであろう。思わぬご不興に愕然とした博士は、直ちに、これが奸譎な文字の霊の復讐であることを悟った。
現代語訳文字の霊が、この悪口を言いふらす者をただで済ませるはずがない。ナブ・アヘ・エリバの報告は、ひどく大王のご機嫌を損ねた。ナブウ神の熱烈な崇拝者で、当時一流の文化人である大王にしてみれば、これは当然のことである。老博士はその日のうちに謹慎を命じられた。大王の幼いころからの教育係であるナブ・アヘ・エリバでなかったら、おそらく、生きたまま皮をはがれる刑に処せられていただろう。思いがけない大王の不興に愕然とした博士は、すぐに、これがずる賢い文字の霊の復讐であることを悟った。
原文しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙にも圧死した。
現代語訳しかし、まだこれだけでは済まなかった。数日後、ニネヴェ・アルベラ地方を襲った大地震のとき、博士はたまたま自宅の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ、書棚が倒れた。おびただしい書物が――数百枚の重い粘土板が、文字たちのすさまじい呪いの声とともに、この悪口を言いふらした者の上に落ちかかり、彼は無残にも押しつぶされて死んだ。
原文(昭和十七年二月)
現代語訳(昭和十七年二月)