原文と現代語訳の対照
『高野聖』現代語訳(全文)
著者: 泉鏡花
青空文庫の原文を段落ごとに区切り、隣に現代語訳を並べました。読みにくい言い回しは現代語訳で、言葉の響きは原文で味わえます。場面の段落には、その場面を描いた漫画ページへのリンクがあります。
この現代語訳は、生成AIが原文をもとに作成し、段落ごとに原文と照合したものです。学術的な訳注ではありません。正確な表現や解釈は、原文でお確かめください。
漫画で読む(無料)一
原文「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
現代語訳「参謀本部が作った地図を、今さらまた広げて見ることもないだろう、とは思ったが、あまりにひどい道なので、手を触れるのさえ暑苦しい旅の衣の袖をまくり上げて、表紙をつけた折り本になっている地図を引っ張り出した。
原文飛騨から信州へ越える深山の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓が被さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
現代語訳飛騨から信州へ越える深い山の抜け道で、ちょうど一休みしようという一本の木立もない。右も左も山ばかりだ。手を伸ばせば届きそうな峰があると、その峰の上にまた峰が重なり、山頂が覆いかぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えない。
原文道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」
現代語訳道と空との間に、ただ私一人だけ。およそ正午と思われる、焼けつくような太陽の、色も白いほどに冴え返った光を、深くかぶった一重の檜笠でしのぎながら、こうして地図を見たのだ」
原文旅僧はそういって、握拳を両方枕に乗せ、それで額を支えながら俯向いた。
現代語訳旅の僧はそう言って、握りこぶしを両方とも枕の上に乗せ、それで額を支えながらうつむいた。
原文道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知ってる限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。
現代語訳道連れになったこのお坊さんは、名古屋からこの越前敦賀の宿屋に来て、たった今床についたときまで、私が知っている限り、あまりあお向けになったことがない。つまり、偉そうに物を見下ろしたりしない性質の人である。
原文一体東海道掛川の宿から同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰のごとく控えたから別段目にも留まらなかった。
現代語訳そもそも東海道の掛川の宿場から同じ汽車に乗り合わせたと覚えているが、座席の隅に頭を垂れて、燃えつきた灰のようにおとなしく控えていたので、特に目にも留まらなかった。
原文尾張の停車場で他の乗組員は言合せたように、残らず下りたので、函の中にはただ上人と私と二人になった。
現代語訳尾張の駅で、ほかの乗客たちは申し合わせたように残らず降りてしまったので、車両の中にはただお坊さんと私の二人だけになった。
原文この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今夕敦賀に入ろうという、名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ばらばらと海苔が懸った、五目飯の下等なので。
現代語訳この汽車は昨夜九時半に新橋を出て、今日の夕方に敦賀に入ろうという汽車で、名古屋では正午だったから、昼食に一折の寿司を買った。旅の僧も私と同じその寿司を買ったのだが、ふたを開けると、ぱらぱらと海苔がかかった、五目飯の安物だった。
原文(やあ、人参と干瓢ばかりだ。)と粗忽ッかしく絶叫した。私の顔を見て旅僧は耐え兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己にはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違うが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。
現代語訳(やあ、にんじんとかんぴょうばかりだ)と私はそそっかしく叫んだ。私の顔を見て、旅の僧はこらえきれなくなったのだろう、くっくっと笑い出した。もともと二人きりだったので、そこから知り合いになったのだが、聞けばこれから越前へ行って、宗派は違うが永平寺に訪ねる人がいる、ただし敦賀に一泊する、とのことだった。
原文若狭へ帰省する私もおなじ処で泊らねばならないのであるから、そこで同行の約束が出来た。
現代語訳若狭へ帰省する私も同じところで泊まらなければならなかったので、そこで一緒に行く約束ができた。
原文かれは高野山に籍を置くものだといった、年配四十五六、柔和ななんらの奇も見えぬ、懐しい、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻をしめ、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を嵌め、白足袋に日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠というものに、それよりもむしろ俗か。
現代語訳彼は高野山に籍を置く者だと言った。年は四十五、六。穏やかで、少しも変わったところの見えない、親しみやすい、おとなしそうな風采で、ラシャの角袖の外套を着て、白いフランネルの襟巻きをし、トルコ帽をかぶり、毛糸の手袋をはめ、白足袋に日和下駄という姿で、一見したところ、僧侶というよりは、世間でいう俳句や茶道の師匠のよう、いや、それよりもむしろ普通の人のようだった。
原文(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息した、第一盆を持って女中が坐睡をする、番頭が空世辞をいう、廊下を歩行くとじろじろ目をつける、何より最も耐え難いのは晩飯の支度が済むと、たちまち灯を行燈に換えて、薄暗い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寐ることが出来ないから、その間の心持といったらない、殊にこの頃は夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が気になってならないくらい、差支えがなくば御僧とご一所に。
現代語訳(お泊まりはどちらですかな)と聞かれたので、私は一人旅の宿屋のつまらなさを、しみじみとこぼした。第一に、女中はお盆を持ったまま居眠りをする。番頭は口先だけのお世辞を言う。廊下を歩けば、じろじろと目をつけられる。何よりいちばん耐えがたいのは、晩ご飯の支度が済むと、すぐに明かりを行灯に替えて、薄暗いところで「お休みなさい」と命令されることだ。私は夜が更けるまで眠れないので、その間の気持ちといったらない。ことにこのごろは夜が長く、東京を出るときから一晩の宿のことが気になってならないくらいだ。差し支えなければ、お坊さんとご一緒に、と。
原文快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋というのがある、旧は一軒の旅店であったが、一人女の評判なのがなくなってからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らず泊めて、老人夫婦が内端に世話をしてくれる、宜しくばそれへ、その代といいかけて、折を下に置いて、
現代語訳お坊さんは快くうなずいて、北陸地方を行脚するときにはいつも杖を休める香取屋という家がある、昔は一軒の宿屋だったが、評判だった一人娘が亡くなってからは看板を下ろした、けれども昔からなじみの者は断らずに泊めて、年寄り夫婦が内々で世話をしてくれる、よければそこへ、その代わり、と言いかけて、寿司の折を下に置き、
原文(ご馳走は人参と干瓢ばかりじゃ。)
現代語訳(ごちそうは、にんじんとかんぴょうばかりじゃ)
原文とからからと笑った、慎み深そうな打見よりは気の軽い。
現代語訳と、からからと笑った。慎み深そうな見かけよりも、気さくな人だった。
二
原文岐阜ではまだ蒼空が見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原、長浜は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思ったが、柳ヶ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちら交って来た。
現代語訳岐阜ではまだ青空が見えていたが、その後は名高い北国の空で、米原、長浜は薄曇りでかすかに日が差し、寒さが身にしみると思っていたら、柳ヶ瀬では雨になり、汽車の窓が暗くなるにつれて、白いものがちらちらと交じってきた。
原文(雪ですよ。)
現代語訳(雪ですよ)
原文(さようじゃな。)といったばかりで別に気に留めず、仰いで空を見ようともしない、この時に限らず、賤ヶ岳が、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。
現代語訳(そうですな)と言っただけで、特に気にもとめず、空を見上げようともしない。このときに限らず、あれが賤ヶ岳です、と古戦場を指さしたときも、琵琶湖の景色を話したときも、旅の僧はただうなずくばかりだった。
原文敦賀で悚毛の立つほど煩わしいのは宿引の悪弊で、その日も期したるごとく、汽車を下ると停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜抜ける隙もあらなく旅人を取囲んで、手ン手に喧しく己が家号を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰って、へい難有う様で、を喰わす、頭痛持は血が上るほど耐え切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻しに通抜ける旅僧は、誰も袖を曳かなかったから、幸いその後に跟いて町へ入って、ほっという息を吐いた。
現代語訳敦賀で身の毛がよだつほどわずらわしいのは、客引きの悪い習慣である。その日も予想していたとおり、汽車を降りると、駅の出口から町はずれにかけて、客を招く提灯や、宿の印をつけた傘がずらりと堤のように並び、すり抜けるすき間もないほど旅人を取り囲んで、手に手にやかましく自分の宿の名を呼び立てる。中でもひどいのは、素早く手荷物をひったくって、「へい、ありがとうございます」とやってくる手合いで、頭痛持ちなら頭に血が上るほど耐えられない。ところが、例のうつむいて悠々と、小回りよくすり抜けていく旅の僧には、誰も袖を引かなかったので、私は幸いその後について町に入り、ほっと息をついた。
原文雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらと面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の通はひっそりして一条二条縦横に、辻の角は広々と、白く積った中を、道の程八町ばかりで、とある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。
現代語訳雪は小やみもなく、今は雨も交じらず、乾いた軽い雪がさらさらと顔を打つ。宵のうちから戸を閉めた敦賀の通りはひっそりとして、一筋、二筋と縦横に走り、辻の角は広々としている。白く積もった中を、八町(九百メートル)ほど歩いて、ある家の軒下にたどり着いたのが、目当ての香取屋だった。
原文床にも座敷にも飾りといっては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、炉の大いなる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思わるる艶を持った、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けそうな目覚しい釜の懸った古家で。
現代語訳床の間にも座敷にも飾りというものはないが、柱の立派な、畳の固い、大きな囲炉裏のある家で、自在鉤の鯉の飾りは、うろこが黄金でできているかと思われるほどのつやを持っていた。すばらしいかまどを二つ並べて、一斗の飯でも炊けそうな、目を見張るような釜がかかった古い家だった。
原文亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ両手の先を竦まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、ちょっと世辞のいい婆さん、件の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取成なんど、いかにも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心のいいといったらない。
現代語訳主人はつるりとはげた頭で、木綿の筒袖の中に両手の先をすくめて、火鉢の前でも手を出さない、のっそりとした親父。おかみさんの方は愛嬌があって、ちょっと口のうまいお婆さんで、例のにんじんとかんぴょうの話を旅の僧が持ち出すと、にこにこ笑いながら、ちりめんじゃこと、カレイの干物と、とろろ昆布の味噌汁で膳を出してくれた。物の言い方や応対ぶりなど、いかにもお坊さんとは特に親しい間柄と見えて、連れの私の居心地のよいことといったらなかった。
原文やがて二階に寝床を拵えてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあろう、屋の棟から斜に渡って座敷の果の廂の処では天窓に支えそうになっている、巌乗な屋造、これなら裏の山から雪崩が来てもびくともせぬ。
現代語訳やがて二階に寝床をこしらえてくれた。天井は低いが、梁は丸太で二抱えもあるだろう。屋根の棟から斜めに渡されていて、座敷の端のひさしのところでは頭がつかえそうになっている。がっしりとした造りの家で、これなら裏山から雪崩が来てもびくともしないだろう。
原文特に炬燵が出来ていたから私はそのまま嬉しく入った。寝床はもう一組おなじ炬燵に敷いてあったが、旅僧はこれには来らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床に寝た。
現代語訳特にこたつが用意してあったので、私はそのままうれしく入った。寝床はもう一組、同じこたつに敷いてあったが、旅の僧はこちらには来ず、横に枕を並べて、火の気のない寝床に寝た。
原文寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱がぬ、着たまま円くなって俯向形に腰からすっぽりと入って、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏った、その様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。
現代語訳寝るとき、お坊さんは帯を解かない。もちろん着物も脱がない。着たまま丸くなって、うつ伏せの姿勢で腰からすっぽりと布団に入り、肩に夜具の袖をかけると、手をついてかしこまった。その様子は我々とは反対で、顔に枕をするのである。
原文ほどなく寂然として寐に就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろい談をといって打解けて幼らしくねだった。
現代語訳間もなく静かに寝入りそうなので、汽車の中でもくれぐれも言っておいたのはこのことだ、私は夜が更けるまで眠れない、哀れと思ってもうしばらく付き合って、諸国を行脚なさった間の面白い話を、と、打ち解けて子どものようにねだった。
原文すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に就かぬのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。出家のいうことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。後で聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝という大和尚であったそうな。
現代語訳するとお坊さんはうなずいて、私は中年からあお向けに寝ないのが癖で、寝るにもこのままだが、目はまだなかなか冴えている、すぐに寝つけないのはあなたと同じだろう。出家の言うことでも、教えだの、戒めだの、説法ばかりとは限らない、若い方、お聞きなさい、と言って語り出した。後で聞くと、宗門でも名高い説教師で、六明寺の宗朝という大和尚だったそうだ。
三
原文「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物の旅商人。いやこの男なぞは若いが感心に実体な好い男。
現代語訳「そのうち、もう一人ここへ来て寝るそうだが、あなたと同じ国の、若狭の者で塗り物の行商人だ。いや、この男などは若いが、感心に実直なよい男だ。
原文私が今話の序開をしたその飛騨の山越をやった時の、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴あ、けたいの悪い、ねじねじした厭な壮佼で。
現代語訳私が今話の手始めにした、その飛騨の山越えをしたときに、麓の茶店で一緒になった富山の薬売りというやつは、たちの悪い、ひねくれた嫌な若者でな。
原文まずこれから峠に掛ろうという日の、朝早く、もっとも先の泊はものの三時ぐらいには発って来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。
現代語訳いよいよこれから峠にかかろうという日の朝早く、もっとも前の泊まりはまだ三時ごろには発ってきたので、涼しいうちに六里(約二十四キロ)ほど、その茶店までのしてきたのだが、朝から晴れてじりじりと暑いのだ。
原文慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いてしようがあるまい、早速茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸いておらぬという。
現代語訳欲張って大急ぎで歩いてきたから、喉が渇いてしかたがない。さっそくお茶を飲もうと思ったが、まだ湯が沸いていないという。
原文どうしてその時分じゃからというて、めったに人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。
現代語訳それもそのはず、その時刻のことだから、めったに人通りのない山道で、朝顔が咲いているうちから煙が立つ道理もない。
原文床几の前には冷たそうな小流があったから手桶の水を汲もうとしてちょいと気がついた。
現代語訳腰かけの前に、冷たそうな小川が流れていたので、手桶の水をくもうとして、ちょっと気がついた。
原文それというのが、時節柄暑さのため、恐しい悪い病が流行って、先に通った辻などという村は、から一面に石灰だらけじゃあるまいか。
現代語訳というのも、季節柄、暑さのために恐ろしい悪い病気がはやっていて、先に通った辻という村などは、一面に消毒の石灰だらけだったではないか。
原文(もし、姉さん。)といって茶店の女に、
現代語訳(もし、姉さん)と茶店の女に、
原文(この水はこりゃ井戸のでござりますか。)と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。
現代語訳(この水は、井戸の水でございますか)と、きまりも悪く、もじもじしながら尋ねると。
原文(いんね、川のでございます。)という、はて面妖なと思った。
現代語訳(いいえ、川の水でございます)と言う。はて、妙だと思った。
原文(山したの方には大分流行病がございますが、この水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。)
現代語訳(山の下の方では、だいぶはやり病が出ていますが、この水はどこから、辻の方から流れてくるのではありませんか)
原文(そうでねえ。)と女は何気なく答えた、まず嬉しやと思うと、お聞きなさいよ。
現代語訳(そうではねえです)と女は何気なく答えた。まずよかったと思っていると、まあ聞いてください。
原文ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。このまた万金丹の下廻と来た日には、ご存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆、股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばったのを首に結えて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、おきまりだね。ちょいと見ると、いやどれもこれも克明で分別のありそうな顔をして。
現代語訳ここにいて、さっきから休んでいたのが、例の薬売りだ。この万金丹の下っ端の行商人ときたら、ご存じのとおり、細い縞の単衣に小倉織の帯、このごろは時計を挟んでいる。脚絆、股引は言うまでもなく、草鞋ばきで、もえぎ色の木綿の風呂敷包みの角ばったのを首に結わえ、油紙の合羽を小さくたたんで真田紐で右の包みにつけるか、小弁慶縞の木綿の洋傘を一本持つのがお決まりだね。ちょっと見ると、いや、どれもこれも実直で分別のありそうな顔をしている。
原文これが泊に着くと、大形の浴衣に変って、帯広解で焼酎をちびりちびり遣りながら、旅籠屋の女のふとった膝へ脛を上げようという輩じゃ。
現代語訳それが宿に着くと、大柄の浴衣に着替え、帯をゆるく結んで焼酎をちびりちびりやりながら、宿の女中の太ったひざに足を上げようという連中なのだ。
原文(これや、法界坊。)
現代語訳(おい、法界坊)
原文なんて、天窓から嘗めていら。
現代語訳なんて、頭からなめてかかっている。
原文(異なことをいうようだが何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命は欲しいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のある内がいいじゃあねえか、)といって顔を見合せて二人でからからと笑った。
現代語訳(妙なことを言うようだが何かね、世の中の女とは縁がないと相場が決まって、つるつる坊主になっても、やっぱり命は惜しいのかね。不思議じゃねえか。争えねえもんだ。姉さん、見てごらん。あれでまだ未練があるうちがいいじゃねえか)と言って、顔を見合わせて二人でからからと笑った。
原文年紀は若し、お前様、私は真赤になった、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予っているとね。
現代語訳私も年が若かった。あなた、私は真っ赤になって、手にくんだ川の水を飲みかねて、ためらっているとね。
原文ポンと煙管を払いて、
現代語訳薬売りは、ぽんとキセルをはたいて、
原文(何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くなりゃ、薬を遣らあ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。おい、それだっても無銭じゃあいけねえよ、憚りながら神方万金丹、一貼三百だ、欲しくば買いな、まだ坊主に報捨をするような罪は造らねえ、それともどうだお前いうことを肯くか。)といって茶店の女の背中を叩いた。
現代語訳(何、遠慮しねえで浴びるほど飲みなせえ。命が危なくなったら、薬をやらあ。そのために俺がついてるんだぜ、なあ姉さん。おい、それだってただじゃいけねえよ。はばかりながら神方万金丹、一包み三百文だ。欲しけりゃ買いな。まだ坊主にお布施をするような罪は作らねえ。それともどうだ、お前、俺の言うことを聞くか)と言って、茶店の女の背中をたたいた。
原文私はそうそうに遁出した。
現代語訳私はそそくさと逃げ出した。
原文いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年を仕った和尚が業体で恐入るが、話が、話じゃからそこはよろしく。」
現代語訳いや、ひざだの、女の背中だのと、いい年をした和尚が口にするのは恐れ入るが、話が話だから、そこはよろしく」
四
原文「私も腹立紛れじゃ、無暗と急いで、それからどんどん山の裾を田圃道へかかる。
現代語訳「私も腹立ちまぎれに、むやみに急いで、それからどんどん山の裾の田んぼ道にさしかかった。
原文半町ばかり行くと、路がこう急に高くなって、上りが一カ処、横からよく見えた、弓形でまるで土で勅使橋がかかってるような。上を見ながら、これへ足を踏懸けた時、以前の薬売がすたすたやって来て追着いたが。
現代語訳半町(五十メートル余り)ほど行くと、道が急にこう高くなって、上り坂が一か所、横からよく見えた。弓なりになっていて、まるで土で勅使橋(反り橋)が架かっているようだ。上を見ながら、ここへ足をかけたとき、さっきの薬売りがすたすたやって来て追いついた。
原文別に言葉も交さず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。どこまでも人を凌いだ仕打な薬売は流眄にかけて故とらしゅう私を通越して、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先へ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。
現代語訳特に言葉も交わさず、また何か言われたからといって、こちらにも返事をする気はない。どこまでも人を見下した態度の薬売りは、横目でちらりと見て、わざとらしく私を追い越し、すたすたと前に出て、小山のような道の突端に、ぬっと洋傘を差して立ったが、そのまま向こうへ下りて見えなくなった。
原文その後から爪先上り、やがてまた太鼓の胴のような路の上へ体が乗った、それなりにまた下りじゃ。
現代語訳その後からつま先上りに上り、やがてまた太鼓の胴のように盛り上がった道の上に体が乗ると、そのまままた下りになる。
原文売薬は先へ下りたが立停ってしきりに四辺を眗している様子、執念深く何か巧んだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細があるわい。
現代語訳薬売りは先に下りたが、立ち止まってしきりにあたりを見回している様子だ。しつこく何かたくらんでいるのかと、不愉快に思いながら続いたが、さてよく見ると、わけがあるのだ。
原文路はここで二条になって、一条はこれからすぐに坂になって上りも急なり、草も両方から生茂ったのが、路傍のその角の処にある、それこそ四抱、そうさな、五抱もあろうという一本の檜の、背後へ蜿って切出したような大巌が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なってその背後へ通じているが、私が見当をつけて、心組んだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。
現代語訳道はここで二筋に分かれていて、一筋はここからすぐに坂になって、上りも急で、両側から草も生い茂っている。道ばたのその角のところには、それこそ四抱え、いや五抱えもあろうかという一本の檜があり、その後ろへうねるように、切り出したような大岩が二つ、三つ、四つと並んで、上の方へ重なり合い、その奥へと通じている。しかし私が見当をつけて心づもりしていたのはこちらではなく、やはり今まで歩いてきた、幅の広いなだらかな方がまさしく本道で、あと二里足らず行けば山になって、そこからが峠になるはずだった。
原文と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらに何もない路を横断って見果のつかぬ田圃の中空へ虹のように突出ている、見事な。根方の処の土が壊れて大鰻を捏ねたような根が幾筋ともなく露れた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出してあたりは一面。
現代語訳と見ると、どうしたことだろう。今言ったその檜が、そこらに何もない道を横切って、果てしない田んぼの中空へ、虹のように突き出している。見事なものだ。根もとのところの土が崩れて、大うなぎをこね回したような根が幾筋となくあらわになり、その根から一筋の水がさっと落ちて地面の上を流れ、私が取って進もうとする道の真ん中に流れ出して、あたり一面が水びたしになっている。
原文田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬になって、前途に一叢の藪が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。礫はばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨で伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違いはない。
現代語訳田んぼが湖にならないのが不思議なくらいで、どうどうと浅瀬のように流れ、行く手に一群れの藪が見えるが、そこを境にしておよそ二町(二百メートル余り)ばかりの間は、まるで川だ。小石がばらばらと散らばり、飛び石のようにひょいひょいと大またで渡れそうなものが、ずっと見事に続いているが、それでも人の手で並べたものに違いない。
原文もっとも衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀過ぎて、なかなか馬などが歩行かれる訳のものではないので。
現代語訳もっとも、着物を脱いで渡らなければならないほどの大ごとではないが、本街道にしては少し難儀すぎて、とても馬などが歩けるようなものではない。
原文売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放れよく向を変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。見る間に檜を後に潜り抜けると、私が体の上あたりへ出て下を向き、
現代語訳薬売りもこれで迷ったのだろうと思っているうちに、彼はきっぱりと向きを変えて、右の坂をすたすたと上り始めた。見る間に檜の後ろをくぐり抜けると、私の頭の上あたりに出てきて下を向き、
原文(おいおい、松本へ出る路はこっちだよ、)といって無造作にまた五六歩。
現代語訳(おいおい、松本へ出る道はこっちだよ)と言って、無造作にまた五、六歩。
原文岩の頭へ半身を乗出して、
現代語訳岩のてっぺんへ半身を乗り出して、
原文(茫然してると、木精が攫うぜ、昼間だって容赦はねえよ。)と嘲るがごとく言い棄てたが、やがて岩の陰に入って高い処の草に隠れた。
現代語訳(ぼんやりしてると、山の精にさらわれるぜ。昼間だって容赦はしねえよ)とあざけるように言い捨てたが、やがて岩陰に入り、高いところの草に隠れてしまった。
原文しばらくすると見上げるほどな辺へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂の中に見えなくなった。
現代語訳しばらくすると、見上げるほど高いあたりに洋傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって、茂みの中に見えなくなった。
原文(どッこいしょ、)と暢気なかけ声で、その流の石の上を飛々に伝って来たのは、茣蓙の尻当をした、何にもつけない天秤棒を片手で担いだ百姓じゃ。」
現代語訳(どっこいしょ)と、のんきなかけ声で、その流れの石の上を飛び飛びに伝って来たのは、ござの尻当てをして、何もつけていない天秤棒を片手で担いだ百姓だった」
五
原文「さっきの茶店からここへ来るまで、売薬の外は誰にも逢わなんだことは申上げるまでもない。
現代語訳「さっきの茶店からここへ来るまで、薬売りのほかには誰にも会わなかったことは、申し上げるまでもない。
原文今別れ際に声を懸けられたので、先方は道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷がするので、今朝も立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。
現代語訳今、別れ際に声をかけられたので、相手は旅慣れた商売人だと見ただけに、まさかと思っても迷いが出て、今朝も出発のときによく見てきた、前にも言ったあの地図をな、ここでも開いて見ようとしていたところだった。
原文(ちょいと伺いとう存じますが、)
現代語訳(ちょっとお伺いしたいのですが)
原文(これは何でござりまする、)と山国の人などは殊に出家と見ると丁寧にいってくれる。
現代語訳(これは何でございましょう)と、山国の人などは、ことに出家と見ると丁寧に答えてくれる。
原文(いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれを素直に参るのでございましょうな。)
現代語訳(いえ、お伺いするまでもないのですが、道はやはり、これをまっすぐ参るのでございましょうな)
原文(松本へ行かっしゃる? ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨に水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。)
現代語訳(松本へ行きなさる? ああ、ああ、本道ですよ。何ね、この間の梅雨に水が出て、とんでもない川ができたんでさあ)
原文(まだずっとどこまでもこの水でございましょうか。)
現代語訳(まだずっと、どこまでもこの水でございましょうか)
原文(何のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向うのあの藪までで、後はやっぱりこれと同一道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは旧大きいお邸の医者様の跡でな、ここいらはこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ、人死もいけえこと。ご坊様歩行きながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい。)と問わぬことまで深切に話します。それでよく仔細が解って確になりはなったけれども、現に一人踏迷った者がある。
現代語訳(何の、お前様、見かけだけで、わけはございませんよ。水になったのは向こうのあの藪までで、後はやっぱりこれと同じ道筋で、山までは荷車が並んで通れますだ。藪のあるのは、昔、大きなお屋敷のお医者様がいた跡でしてな、このあたりはこれでも一つの村でしたが、十三年前の大水のときに、一面の野原になってしまいましたよ。死人もたくさん出ました。お坊様、歩きながらお念仏でも唱えてやってくだされ)と、聞かないことまで親切に話してくれる。それでよくわけが分かって確かにはなったが、現に一人、道に迷った者がいる。
原文(こちらの道はこりゃどこへ行くので、)といって売薬の入った左手の坂を尋ねて見た。
現代語訳(こちらの道は、どこへ行くのでしょう)と言って、薬売りの入っていった左手の坂のことを尋ねてみた。
原文(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた旧道でがす。やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時往来の出来るのじゃあござりませぬ。去年もご坊様、親子連の巡礼が間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食を見たような者じゃというて、人命に代りはねえ、追かけて助けべえと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になってこれから押登って、やっと連れて戻ったくらいでがす。ご坊様も血気に逸って近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。はい、気を付けて行かっしゃれ。)
現代語訳(はい、これは五十年ほど前までは人が歩いていた旧道でさあ。やっぱり信州へ出ますし、行き着く先は同じで、全体で七里ほど近いのですが、いや、今どき往来できる道ではございません。去年もお坊様、親子連れの巡礼が間違えて入ったというので、それは大変だ、乞食のような者だといっても人の命に変わりはねえ、追いかけて助けようと、お巡りさんが三人、村の者が十二人、一組になって押し登って、やっと連れて戻ったくらいでさあ。お坊様も血気にはやって近道をしてはなりませんぞ。くたびれて野宿をしても、ここを行きなさるよりはましですから。はい、気をつけて行きなされ)
原文ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予ったのは売薬の身の上で。
現代語訳ここで百姓と別れて、その川の石の上を行こうとしたが、ふとためらったのは、あの薬売りの身の上のことでな。
原文まさかに聞いたほどでもあるまいが、それが本当ならば見殺じゃ、どの道私は出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追着いて引戻してやろう。罷違うて旧道を皆歩行いても怪しゅうはあるまい、こういう時候じゃ、狼の旬でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、ままよ、と思うて、見送ると早や深切な百姓の姿も見えぬ。
現代語訳まさか聞いたほどでもあるまいが、それが本当なら見殺しだ。どのみち私は出家の身、日が暮れるまでに宿に着いて屋根の下で寝るには及ばない。追いついて連れ戻してやろう。まかり間違って旧道を全部歩いても、別におかしくはあるまい。こういう季節だ、狼の盛りの時期でもなく、化け物の出る頃合いでもない、ええ、ままよ、と思って見送ると、もう親切な百姓の姿も見えない。
原文(よし。)
現代語訳(よし)
原文思切って坂道を取って懸った、侠気があったのではござらぬ、血気に逸ったではもとよりない、今申したようではずっともう悟ったようじゃが、いやなかなかの臆病者、川の水を飲むのさえ気が怯けたほど生命が大事で、なぜまたと謂わっしゃるか。
現代語訳思いきって坂道に取りかかった。男気があったのではない。血気にはやったのではもちろんない。今言ったことからすると、ずいぶん悟りすましたようだが、いや、なかなかの臆病者で、川の水を飲むのさえ気おくれしたほど命が大事なのに、なぜまた、とおっしゃるか。
原文ただ挨拶をしたばかりの男なら、私は実のところ、打棄っておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄てるのが、故とするようで、気が責めてならなんだから、」
現代語訳ただあいさつをしただけの男だったら、私は実のところ、放っておいたに違いない。だが、不愉快な人だと思っていたものだから、そのまま見捨てるのが、わざとそうしているようで、気がとがめてならなかったからな」
原文と宗朝はやはり俯向けに床に入ったまま合掌していった。
現代語訳と、宗朝はやはりうつ伏せに床に入ったまま、合掌して言った。
原文「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ。」
現代語訳「それでは、口で唱える念仏にも申し訳ないと思ってな」
六
原文「さて、聞かっしゃい、私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹の中を潜って草深い径をどこまでも、どこまでも。
現代語訳「さて、お聞きなさい。私はそれから檜の裏を抜け、岩の下から岩の上へ出て、木々の中をくぐって、草深い小道をどこまでも、どこまでも進んだ。
原文するといつの間にか今上った山は過ぎてまた一ツ山が近いて来た、この辺しばらくの間は野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。
現代語訳すると、いつの間にか今登った山は過ぎて、また一つ山が近づいてきた。このあたりはしばらくの間、野原が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一本道だ。
原文心持西と、東と、真中に山を一ツ置いて二条並んだ路のような、いかさまこれならば槍を立てても行列が通ったであろう。
現代語訳少し西と東に、真ん中に山を一つ置いて、二筋並んだ道のようで、なるほどこれなら、槍を立てた大名行列も通ったことだろう。
原文この広ッ場でも目の及ぶ限り芥子粒ほどの大さの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行いた。
現代語訳この広い場所でも、見渡す限り、けし粒ほどの大きさの薬売りの姿も見えず、ときどき焼けるような空を、小さな虫が飛び回っていた。
原文歩行くにはこの方が心細い、あたりがぱッとしていると便がないよ。もちろん飛騨越と銘を打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこで粟の飯にありつけば都合も上の方ということになっております。それを覚悟のことで、足は相応に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。すると、だんだんまた山が両方から逼って来て、肩に支えそうな狭いとこになった、すぐに上。
現代語訳歩くには、この方がかえって心細い。あたりがぱっと開けていると、頼るものがないものだよ。もちろん、飛騨越えと名のついたからには、七里に一軒、十里に五軒という相場で、そこで粟の飯にありつければ上出来ということになっている。それは覚悟のうえのことで、足はそれなりに丈夫だから、いや、くじけずに進んだ、進んだ。すると、だんだんまた両側から山が迫ってきて、肩がつかえそうな狭いところになった。すぐに上りだ。
原文さあ、これからが名代の天生峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘ぎながらまず草鞋の紐を緊直した。
現代語訳さあ、これからが名高い天生峠だと心得たので、こちらもその気になって、なにしろ暑いので、あえぎながら、まず草鞋のひもを締め直した。
原文ちょうどこの上口の辺に美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹抜けの風穴があるということを年経ってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰ではない、一生懸命、景色も奇跡もあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、目じろぎもしないですたすたと捏ねて上る。
現代語訳ちょうどこの上り口のあたりに、美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹き抜けている風穴があるということを、何年もたってから聞いたが、とてもそれどころの話ではない。一生懸命で、景色も不思議な現象もあるものか。天気が晴れているのか曇っているのかさえ分からず、まばたきもしないで、すたすたとこね回すように登っていく。
原文とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、蛇で。両方の叢に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。
現代語訳さて、あなたにお聞かせする話はこれからだが、最初に言ったとおり、道がいかにも悪い。まるで人が通いそうもないうえに、恐ろしいのは蛇だ。両側の草むらに尾と頭を突っ込んで、のたりと道に橋を渡しているではないか。
原文私は真先に出会した時は笠を被って竹杖を突いたまま、はッと息を引いて膝を折って坐ったて。
現代語訳私は、最初に出くわしたときは、笠をかぶって竹の杖をついたまま、はっと息をのんで、ひざを折って座り込んでしまったよ。
原文いやもう生得大嫌、嫌というより恐怖いのでな。
現代語訳いや、もう生まれつき大嫌いで、嫌いというより怖いのでな。
原文その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首を上げたと思うと草をさらさらと渡った。
現代語訳そのときはまず、人助けにずるずると尾を引いて、向こうで鎌首を上げたかと思うと、草をさらさらと渡っていった。
原文ようよう起上って道の五六町も行くと、またおなじように、胴中を乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!
現代語訳ようやく起き上がって、道を五、六町(五、六百メートル)も行くと、また同じように、胴体を日に乾かして、尾も首も見えないのが、ぬたり!
原文あッというて飛退いたが、それも隠れた。三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出したところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでに間があろうと思う長虫と見えたので、やむことをえず私は跨ぎ越した、とたんに下腹が突張ってぞッと身の毛、毛穴が残らず鱗に変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目を塞いだくらい。
現代語訳あっと言って飛びのいたが、それも隠れた。三度目に出会ったのは、いや、すぐには動かず、しかも胴体の太さから見て、たとえはい出したところで、ぬらぬらとやられては、尾を出しきるまでに五分ぐらいはかかりそうな大蛇と見えたので、しかたなく私はまたぎ越した。とたんに下腹がこわばって、ぞっと身の毛がよだち、毛穴が残らずうろこに変わって、顔の色もその蛇のようになっただろうと思って、目をつぶったくらいだ。
原文絞るような冷汗になる気味の悪さ、足が竦んだというて立っていられる数ではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。
現代語訳絞るような冷や汗が出るほどの気味の悪さだが、足がすくんだといって立ち止まっていられる場合ではないので、びくびくしながら道を急ぐと、またしてもいたのだよ。
原文しかも今度のは半分に引切ってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口が蒼を帯びてそれでこう黄色な汁が流れてぴくぴくと動いたわ。
現代語訳しかも今度のは、半分に引きちぎられた胴から尾にかけてだけの蛇だ。切り口が青みを帯びて、そこから黄色い汁が流れて、ぴくぴくと動いていたわ。
原文我を忘れてばらばらとあとへ遁帰ったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれを跨ぐ気はせぬ。ああさっきのお百姓がものの間違でも故道には蛇がこうといってくれたら、地獄へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でもぞっとする。」と額に手を。
現代語訳私は我を忘れて、ばらばらと後ろへ逃げ帰ったが、気がつけば、例のやつがまだいるだろう。たとえ殺されても、二度とあれをまたぐ気にはなれない。ああ、さっきのお百姓が、何かの間違いででも、旧道には蛇がこうだと言ってくれていたら、地獄に落ちてでも来なかったのにと、日に照りつけられながら、涙が流れた。南無阿弥陀仏、今でもぞっとする」と額に手を当てた。
七
原文「果が無いから肝を据えた、もとより引返す分ではない。旧の処にはやっぱり丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ駈け抜けたが、今にもあとの半分が絡いつきそうで耐らぬから気臆がして足が筋張ると石に躓いて転んだ、その時膝節を痛めましたものと見える。
現代語訳「きりがないので、腹を据えた。もとより引き返すわけにはいかない。元のところにはやはり、寸足らずの死骸がある。遠くへよけて草の中を駆け抜けたが、今にも後の半分が絡みついてきそうで、たまらなく気おくれがして足がこわばり、石につまずいて転んだ。そのときにひざを痛めたらしい。
原文それからがくがくして歩行くのが少し難渋になったけれども、ここで倒れては温気で蒸殺されるばかりじゃと、我身で我身を激まして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。
現代語訳それからは足ががくがくして、歩くのが少し難儀になったが、ここで倒れては暑さで蒸し殺されるばかりだと、自分で自分を励まし、首筋をつかんで引き立てるようにして、峠の方へ向かった。
原文何しろ路傍の草いきれが恐しい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許にごろごろしている茂り塩梅。
現代語訳なにしろ、道ばたの草いきれが恐ろしい。大きな鳥の卵のようなものなどが、足もとにごろごろしているほどの茂りぐあいだ。
原文また二里ばかり大蛇の蜿るような坂を、山懐に突当って岩角を曲って、木の根を繞って参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀本部の絵図面を開いて見ました。
現代語訳また二里ほど、大蛇がうねるような坂を、山のふところに突き当たっては岩角を曲がり、木の根をめぐって進んだが、ここであまりにひどい道だったので、参謀本部の地図を開いて見たのだ。
原文何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにも変はない、旧道はこちらに相違はないから心遣りにも何にもならず、もとより歴とした図面というて、描いてある道はただ栗の毬の上へ赤い筋が引張ってあるばかり。
現代語訳何、やはり道は同じで、聞いたのとも見たのとも変わりはない。旧道はこちらで間違いないので、気休めにも何にもならない。もとより立派な地図とはいっても、描いてある道は、ただ栗のいがの上に赤い線が引っ張ってあるだけだ。
原文難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりと畳んで懐に入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立直ったはよいが、息も引かぬ内に情無い長虫が路を切った。
現代語訳苦しさも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのだから、さっぱりとたたんで懐に入れ、うむと、この胸の奥に念仏を唱え込んで立ち直ったのはよいが、一息もつかないうちに、無情にもまた蛇が道を横切った。
原文そこでもう所詮叶わぬと思ったなり、これはこの山の霊であろうと考えて、杖を棄てて膝を曲げ、じりじりする地に両手をついて、
現代語訳そこで、もうとてもかなわないと思うやいなや、これはこの山の霊だろうと考えて、杖を捨ててひざを曲げ、じりじりと焼けた地面に両手をついて、
原文(誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡の邪魔になりませぬようにそっと通行いたしまする。
現代語訳(まことに申し訳ありませんが、お通しくださいませ。なるべくお昼寝の邪魔にならないように、そっと通らせていただきます。
原文ご覧の通り杖も棄てました。)と我折れしみじみと頼んで額を上げるとざっという凄じい音で。
現代語訳ご覧のとおり、杖も捨てました)と、我を折ってしみじみと頼んで額を上げると、ざっというすさまじい音がした。
原文心持よほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、傍の渓へ一文字にさっと靡いた、果は峰も山も一斉に揺いだ、恐毛を震って立竦むと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪よ。
現代語訳よほどの大蛇だと思った。三尺、四尺、五尺四方、一丈(約三メートル)余りと、だんだん草の動くのが広がって、そばの谷へ一直線にさっとなびいた。果ては峰も山もいっせいに揺れた。恐ろしさに震えて立ちすくむと、涼しさが身にしみて、気がつくと山から吹き下ろす風だった。
原文この折から聞えはじめたのはどっという山彦に伝わる響、ちょうど山の奥に風が渦巻いてそこから吹起る穴があいたように感じられる。
現代語訳このときから聞こえ始めたのは、どっと山びこに伝わる響きで、ちょうど山の奥で風が渦巻いて、そこから吹き起こる穴が開いたように感じられた。
原文何しろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなったので、気も勇み足も捗取ったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得することが出来た。
現代語訳なにしろ、山の霊が聞き入れてくださったのか、蛇は見えなくなり、暑さもしのぎやすくなったので、気も勇み、足もはかどった。ほどなく、急に風が冷たくなったわけも分かった。
原文というのは目の前に大森林があらわれたので。
現代語訳というのは、目の前に大きな森が現れたのだ。
原文世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るという、人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。
現代語訳世のたとえにも、天生峠は青空なのに雨が降るといい、人の話にも、神代の昔からきこりが手を入れていない森があると聞いていたのに、今まではあまりに木がなさすぎたのだ。
原文今度は蛇のかわりに蟹が歩きそうで草鞋が冷えた。しばらくすると暗くなった、杉、松、榎と処々見分けが出来るばかりに遠い処から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い。中には光線が森を射通す工合であろう、青だの、赤だの、ひだが入って美しい処があった。
現代語訳今度は蛇の代わりに蟹でも歩いていそうで、草鞋が冷たくなった。しばらくすると暗くなった。杉、松、榎と、ところどころ見分けがつくくらいに、遠いところからかすかに日の光が差すあたりでは、土の色はみな黒い。中には、光が森を射通すぐあいなのだろう、青だの赤だの、ひだが入って美しいところもあった。
原文時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜った糸のような流で、これは枝を打って高い処を走るので。ともするとまた常磐木が落葉する、何の樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠にかかることもある、あるいは行過ぎた背後へこぼれるのもある、それ等は枝から枝に溜っていて何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。」
現代語訳ときどきつま先に絡まるのは、葉のしずくが落ちてたまった糸のような流れで、これは枝を打って高いところを走っている。ともすると、また常緑樹が葉を落とす。何の木とも分からず、ばらばらと鳴り、かさかさと音がして、ぱっと檜笠にかかることもあれば、通り過ぎた背中の後ろへこぼれるのもある。それらは枝から枝にたまっていて、何十年ぶりかで初めて地面まで落ちてきたのか分からない」
八
原文「心細さは申すまでもなかったが、卑怯なようでも修行の積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便がよい。何しろ体が凌ぎよくなったために足の弱も忘れたので、道も大きに捗取って、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓の上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。
現代語訳「心細さは言うまでもなかったが、卑怯なようでも、修行の積んでいない身には、こういう暗いところの方が、かえって心を静めて仏を思うのに都合がよい。なにしろ体が楽になったために足の痛みも忘れたので、道も大いにはかどって、まずこれで森の中の七分は越えただろうと思うところで、頭の上五、六尺ほどの木の枝から、ぼたりと笠の上に落ちてとまったものがある。
原文鉛の錘かとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着いていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴むと、滑らかに冷りと来た。
現代語訳鉛のおもりかと思うような感じで、何かの木の実でもあるのかしらと、二、三度振ってみたが、くっついていてそのままでは取れないので、何気なく手をやってつかむと、なめらかに、ひやりとした。
原文見ると海鼠を裂いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると辷って指の尖へ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱の処へつるりと垂懸っているのは同形をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。
現代語訳見ると、なまこを裂いたような、目も口もないものだが、生き物には違いない。気味が悪くて投げ出そうとすると、ずるずると滑って指の先に吸いつき、ぶらりと下がった。それが離れた指先から、真っ赤な美しい血がたらたらと出たので、びっくりして目の下に指を近づけてじっと見ると、今折り曲げたひじのところに、つるりとぶら下がっているのは、同じ形をした、幅が五分(一・五センチ)、長さが三寸(九センチ)ばかりの山なまこだった。
原文呆気に取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血をしたたかに吸込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣胡瓜のような血を取る動物、こいつは蛭じゃよ。
現代語訳あっけにとられて見ているうちに、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太っていくのは、生き血をたっぷり吸い込んでいるせいで、濁った黒いなめらかな肌に茶褐色の縞を持った、いぼきゅうりのような血を吸う生き物。こいつは蛭だよ。
原文誰が目にも見違えるわけのものではないが、図抜て余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何の畠でも、どんな履歴のある沼でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。
現代語訳誰の目にも見間違えるようなものではないが、ずば抜けて大きいので、ちょっとは気がつかなかった。どんな畑でも、どんないわくつきの沼でも、これほどの蛭がいるとは思われない。
原文肱をばさりと振ったけれども、よく喰込んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手で抓んで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも耐ったものではない、突然取って大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣をくって我ものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れそうにもないのじゃ。
現代語訳ひじをばさりと振ったが、よほど深く食い込んでいるとみえて、なかなか離れそうにないので、気味が悪いながらも手でつまんで引きちぎると、ぷつりといって、ようやく取れた。少しの間も我慢できたものではない。いきなり取って地面にたたきつけたが、これほどのやつらが何万となく巣を作って、我がもの顔にしているところだ。かねてその用意はしてあるのかと思われるほど、日の当たらない森の中の土は柔らかく、つぶれそうにもないのだ。
原文ともはや頸のあたりがむずむずして来た、平手で扱て見ると横撫に蛭の背をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋、蒼くなってそッと見ると肩の上にも一筋。
現代語訳と、もう首のあたりがむずむずしてきた。手のひらでなでてみると、横なでに蛭の背中をぬるぬると滑るではないか。やあ、胸の下に潜り込んで、帯の間にも一匹。青くなってそっと見ると、肩の上にも一筋。
原文思わず飛上って総身を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中でもぎ取った。
現代語訳思わず飛び上がり、全身を震わせながら、この大枝の下を一目散に駆け抜け、走りながら、まず覚えのあるやつだけは夢中でもぎ取った。
原文何にしても恐しい今の枝には蛭が生っているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。
現代語訳なんにしても恐ろしい。今の枝には蛭が実っているのだろうと、あまりのことに思って振り返ると、振り返った木の、どの枝も、やはり数えきれないほどの蛭の皮だった。
原文これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満。
現代語訳これは、と思う。右も、左も、前の枝も、何のことはない、まるでいっぱいだ。
原文私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、すると何と? この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な痩せた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。
現代語訳私は思わず恐怖の声を上げて叫んだ。すると、どうだろう。このときははっきりと目に見えて、上からぼたり、ぼたりと、真っ黒なやせた筋の入った雨が、体に降りかかってきたではないか。
原文草鞋を穿いた足の甲へも落ちた上へまた累り、並んだ傍へまた附着いて爪先も分らなくなった、そうして活きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮をするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。
現代語訳草鞋をはいた足の甲にも落ちたうえに、またその上に重なり、並んだそばにまたくっついて、つま先も分からなくなった。そして、生きていると思うだけで脈を打って血を吸うような、気のせいか一つ一つ伸び縮みしているようなのを見ると、気が遠くなって、そのとき不思議な考えが浮かんだ。
原文この恐しい山蛭は神代の古からここに屯をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛かの血を吸うと、そこでこの虫の望が叶う、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮って昼もなお暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違ないと、いや、全くの事で。」
現代語訳この恐ろしい山蛭は、神代の昔からここに群れていて、人が来るのを待ち受け、長い長い間に、何石(何百リットル)かの血を吸うと、そこでこの虫の望みがかなう。そのときは、ありったけの蛭が、残らず吸っただけの人間の血を吐き出し、そのために土が溶けて、山一つが一面、血と泥の大沼に変わるだろう。それと同時に、ここで日の光をさえぎって昼でもなお暗い大木が、切れ切れになって、その一つ一つが蛭になってしまうに違いない、と。いや、まったくのことだ」
九
原文「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろうと、ぼんやり。
現代語訳「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押しかぶさってくるのでもない。飛騨の国の森が蛭になるのが始まりで、しまいにはみんな血と泥の中に、筋の黒い虫が泳ぐ。それが次の代の世界なのだろう、と、ぼんやり思った。
原文なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだら早や残らず立樹の根の方から朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁らしい、取留めのない考えが浮んだのも人が知死期に近いたからだとふと気が付いた。
現代語訳なるほど、この森も入り口では何ということもなかったのに、中に来るとこのとおりだ。もっと奥深く進んだら、もう残らず立ち木が根の方から朽ちて、山蛭になっているだろう。助かるまい。ここで取り殺される運命らしい。そんなとりとめのない考えが浮かんだのも、人が死に際に近づいたからだと、ふと気がついた。
原文どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見ておこうと、そう覚悟がきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠数生になったのを手当次第に掻い除け挘り棄て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍り狂う形で歩行き出した。
現代語訳どうせ死ぬのなら、一歩でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らない血と泥の大沼の端っこでも見ておこうと、そう覚悟が決まると、気味が悪いも何もあったものではない。体じゅう数珠つなぎになっているのを、手当たりしだいにかき払い、むしり捨て、引き抜いたりして、手を上げ、足を踏み鳴らし、まるで踊り狂うような格好で歩き出した。
原文はじめの中は一廻も太ったように思われて痒さが耐らなかったが、しまいにはげっそり痩せたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦なく歩行く内にも入交りに襲いおった。
現代語訳初めのうちは体がひと回りも太ったように思われて、かゆさがたまらなかったが、しまいにはげっそりやせたように感じられて、ずきずき痛んでならない。その上を容赦なく歩いているうちにも、入れ替わり立ち替わり襲ってきた。
原文既に目も眩んで倒れそうになると、禍はこの辺が絶頂であったと見えて、隧道を抜けたように、遥に一輪のかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。
現代語訳もう目もくらんで倒れそうになったとき、災いはこのあたりが頂点だったとみえて、トンネルを抜けたように、はるか遠くに、一輪のかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口だった。
原文いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、砕けろ、微塵になれと横なぐりに体を山路へ打倒した。それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十余りも蛭の死骸を引くりかえした上から、五六間向うへ飛んで身顫をして突立った。
現代語訳いや、青空の下に出たときには、何もかも忘れて、砕けろ、粉みじんになれと、体を横なぐりに山道に打ち倒した。それから、砂利でも針でもかまうものかと地面にこすりつけて、十あまりも蛭の死骸をひっくり返したうえで、五、六間(十メートルほど)向こうへ飛んで、身震いして突っ立った。
原文人を馬鹿にしているではありませんか。あたりの山では処々茅蜩殿、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている、日は斜、渓底はもう暗い。
現代語訳人をばかにしているではありませんか。あたりの山では、ところどころでひぐらし殿が、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている。日は傾き、谷底はもう暗い。
原文まずこれならば狼の餌食になってもそれは一思に死なれるからと、路はちょうどだらだら下なり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。
現代語訳まずこれならば、狼のえじきになっても、それは一思いに死ねるからと、道はちょうどだらだらの下りだし、小僧さん、竹の杖を調子はずれに肩にかついで、すたこら逃げたわ。
原文これで蛭に悩まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽ったいのか得もいわれぬ苦しみさえなかったら、嬉しさに独り飛騨山越の間道で、お経に節をつけて外道踊をやったであろう、ちょっと清心丹でも噛砕いて疵口へつけたらどうだと、だいぶ世の中の事に気がついて来たわ。抓っても確に活返ったのじゃが、それにしても富山の薬売はどうしたろう、あの様子ではとうに血になって泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢をぶちまけても分る気遣はあるまい。
現代語訳これで、蛭に苦しめられて、痛いのか、かゆいのか、それともくすぐったいのか、何とも言えない苦しみさえなかったら、うれしさのあまり、一人飛騨の山越えの抜け道で、お経に節をつけて変な踊りでもしただろう。ちょっと清心丹(気付け薬)でもかみ砕いて傷口につけたらどうだと、だいぶ世の中のことに気がついてきたわ。つねってみても確かに生き返ったのだが、それにしても富山の薬売りはどうしただろう。あの様子では、とっくに血になって泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗いところ、おまけに意地汚い下品な生き物が、骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていたら、酢をぶちまけても分かるはずはあるまい。
原文こう思っている間、件のだらだら坂は大分長かった。
現代語訳こう思っている間、例のだらだら坂はだいぶ長かった。
原文それを下り切ると流が聞えて、とんだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。
現代語訳それを下りきると、水の流れる音が聞こえて、思いがけないところに、長さ一間(二メートル足らず)ほどの土橋が架かっている。
原文はやその谷川の音を聞くと我身で持余す蛭の吸殻を真逆に投込んで、水に浸したらさぞいい心地であろうと思うくらい、何の渡りかけて壊れたらそれなりけり。
現代語訳もうその谷川の音を聞くと、持て余している蛭に吸われた体を真っ逆さまに投げ込んで、水に浸したらさぞいい気持ちだろうと思うくらいで、何の、渡りかけて壊れたら、それはそれまでだ。
原文危いとも思わずにずっと懸る、少しぐらぐらしたが難なく越した。向うからまた坂じゃ、今度は上りさ、ご苦労千万。」
現代語訳危ないとも思わずに、ずっと渡りかかった。少しぐらぐらしたが、難なく渡りきった。向こうからまた坂だ。今度は上りさ。ご苦労千万なことだ」
十
原文「とてもこの疲れようでは、坂を上るわけには行くまいと思ったが、ふと前途に、ヒイインと馬の嘶くのが谺して聞えた。
現代語訳「とてもこの疲れようでは、坂を上るわけにはいくまいと思ったが、ふと行く手に、ひひいんと馬のいななく声がこだまして聞こえた。
原文馬士が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経ったは僅じゃが、三年も五年も同一ものをいう人間とは中を隔てた。馬が居るようではともかくも人里に縁があると、これがために気が勇んで、ええやっと今一揉。
現代語訳馬方が戻るのか、荷馬が通るのか。今朝一人の百姓と別れてから、たった少しの時間しかたっていないのに、三年も五年も、同じ言葉を話す人間とは隔てられていたような気がした。馬がいるようなら、とにかく人里に縁がある。これのために気が勇んで、ええ、やっともうひと踏ん張り。
原文一軒の山家の前へ来たのには、さまで難儀は感じなかった。夏のことで戸障子のしまりもせず、殊に一軒家、あけ開いたなり門というてもない、突然破縁になって男が一人、私はもう何の見境もなく、
現代語訳一軒の山の家の前に来るまでは、それほど苦労は感じなかった。夏のことで、戸も障子も閉めておらず、ことに一軒家なので、開け放したままで門というものもない。いきなり壊れかけた縁側になっていて、男が一人いた。私はもう何の見境もなく、
原文(頼みます、頼みます、)というさえ助を呼ぶような調子で、取縋らぬばかりにした。
現代語訳(お頼みします、お頼みします)と言う声さえ、助けを呼ぶような調子で、すがりつかんばかりだった。
原文(ご免なさいまし、)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩で塞ぐほど顔を横にしたまま小児らしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものを瞻める、その瞳を動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身の持方。裾短かで袖は肱より少い、糊気のある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりで紐で結えたが、一ツ身のものを着たように出ッ腹の太り肉、太鼓を張ったくらいに、すべすべとふくれてしかも出臍という奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を片手でいじくりながら幽霊の手つきで、片手を宙にぶらり。
現代語訳(ごめんくださいまし)と言ったが、何も言わない。首筋をぐったりさせ、耳を肩でふさぐほど顔を横に傾けたまま、子どものような、意味のない、しかもぽっちりとした目で、じろじろと戸口に立った私を見つめる。その瞳を動かすのさえおっくうらしい、気の抜けた体の構え。丈が短く、袖はひじより短い、のりのきいたちゃんちゃんこを着て、胸のあたりでひもで結んでいたが、子どもの一つ身の着物を着たような出っ腹の太った体で、太鼓を張ったようにすべすべとふくれ、しかも出べそという代物で、かぼちゃのへたほどの異様なそれを片手でいじりながら、もう片方の手は幽霊のような手つきで宙にぶらりと下げている。
原文足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたように畳まれそうな、年紀がそれでいて二十二三、口をあんぐりやった上唇で巻込めよう、鼻の低さ、出額。五分刈の伸びたのが前は鶏冠のごとくになって、頸脚へ撥ねて耳に被った、唖か、白痴か、これから蛙になろうとするような少年。私は驚いた、こっちの生命に別条はないが、先方様の形相。いや、大別条。
現代語訳足は忘れたかのように投げ出し、腰がなければのれんを立てたように折りたためそうな体つきで、それでいて年は二十二、三。ぽかんと開けた上唇で巻き込めそうなほど鼻が低く、おでこが出ている。五分刈りが伸びて、前はとさかのようになり、襟足ではね上がって耳にかぶさっていた。口がきけないのか、知恵に障害があるのか、これから蛙にでもなろうとしているような若者だった。私は驚いた。こちらの命に別状はないが、相手の様子のほうは、いや、大いに尋常ではない。
原文(ちょいとお願い申します。)
現代語訳(ちょっとお願いいたします)
原文それでもしかたがないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというと僅に首の位置をかえて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること旧のごとし。
現代語訳それでもしかたがないので、また言葉をかけたが少しも通じず、ばたりと、わずかに首の位置を変えて、今度は左の肩を枕にした。口が開いているのは元のとおりだ。
原文こういうのは、悪くすると突然ふんづかまえて臍を捻りながら返事のかわりに嘗めようも知れぬ。
現代語訳こういう人は、悪くすると、いきなり私をつかまえて、へそをひねりながら返事の代わりになめてくるかもしれない、などと思った。
原文私は一足退ったが、いかに深山だといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足を爪立てて少し声高に、
現代語訳私は一歩下がったが、いくら深い山の中だといっても、この人を一人で置いておくということはあるまい、と、つま先立ちになって少し声を高くして、
原文(どなたぞ、ご免なさい、)といった。
現代語訳(どなたか、ごめんください)と言った。
原文背戸と思うあたりで再び馬の嘶く声。
現代語訳裏口と思われるあたりで、再び馬のいななく声。
原文(どなた、)と納戸の方でいったのは女じゃから、南無三宝、この白い首には鱗が生えて、体は床を這って尾をずるずると引いて出ようと、また退った。
現代語訳(どなた)と奥の部屋の方で言ったのが女の声だったので、しまった、この白い首にはうろこが生えていて、体は床をはい、尾をずるずると引いて出てくるのではないかと、また後ずさりした。
原文(おお、お坊様。)と立顕れたのは小造の美しい、声も清しい、ものやさしい。
現代語訳(おお、お坊様)と姿を現したのは、小柄で美しい、声も涼しげな、物腰のやさしい女だった。
原文私は大息を吐いて、何にもいわず、
現代語訳私は大きく息をついて、何も言わずに、
原文(はい。)と頭を下げましたよ。
現代語訳(はい)と頭を下げましたよ。
原文婦人は膝をついて坐ったが、前へ伸上るようにして、黄昏にしょんぼり立った私が姿を透かして見て、
現代語訳女はひざをついて座ったが、前へ伸び上がるようにして、たそがれの中にしょんぼりと立っている私の姿を透かして見て、
原文(何か用でござんすかい。)
現代語訳(何かご用でございますか)
原文休めともいわずはじめから宿の常世は留守らしい、人を泊めないときめたもののように見える。
現代語訳休んでいけとも言わず、初めから、この家には客を泊めるつもりはないと決めているように見える。
原文いい後れてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることと、つかつかと前へ出た。
現代語訳言いそびれては、かえって切り出しにくくなり、頼むにも頼めない羽目になると思って、つかつかと前に出た。
原文丁寧に腰を屈めて、
現代語訳丁寧に腰をかがめて、
原文(私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠のございます処まではまだどのくらいでございましょう。)
現代語訳(私は山を越えて信州へ参る者ですが、宿屋のある所までは、まだどのくらいでございましょう)
十一
原文(あなたまだ八里余でございますよ。)
現代語訳(あなた、まだ八里(三十キロ余り)以上ございますよ)
原文(その他に別に泊めてくれます家もないのでしょうか。)
現代語訳(そのほかに、特に泊めてくれる家もないのでしょうか)
原文(それはございません。)といいながら目たたきもしないで清しい目で私の顔をつくづく見ていた。
現代語訳(それはございません)と言いながら、まばたきもしないで、涼しげな目で私の顔をつくづくと見ていた。
原文(いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の室に寝かして一晩扇いでいてそれで功徳のためにする家があると承りましても、全くのところ一足も歩行けますのではございません、どこの物置でも馬小屋の隅でもよいのでございますから後生でございます。)とさっき馬が嘶いたのは此家より外にはないと思ったから言った。
現代語訳(いえ、もう何でございます。実は、この先一町行けば、上等の部屋に寝かせて、一晩じゅうあおいでくれて、それを功徳としてくれる家があると聞いても、まったくのところ、一歩も歩けそうにないのでございます。どこの物置でも、馬小屋の隅でもよいのですから、後生でございます)と、さっき馬がいなないたのは、この家よりほかにはないと思ったから言った。
原文婦人はしばらく考えていたが、ふと傍を向いて布の袋を取って、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一幅、水を溢すようにあけて縁をおさえて、手で掬って俯向いて見たが、
現代語訳女はしばらく考えていたが、ふとわきを向いて布の袋を取り、ひざのあたりに置いた桶の中へ、ざらざらとひとかたまり、水をこぼすように空けて、縁を押さえ、手ですくってうつむいて見ていたが、
原文(ああ、お泊め申しましょう、ちょうど炊いてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)
現代語訳(ああ、お泊めいたしましょう。ちょうど炊いて差し上げるくらいのお米もございますし、それに夏のことで、山の家は冷えるといっても、夜具にご不自由はございませんでしょう。さあ、とにかくあなた、お上がりなさいまし)
原文というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。婦人はつと身を起して立って来て、
現代語訳と言う、その言葉が終わらないうちに、私はどっかと腰を下ろした。女はすっと身を起こして立ってきて、
原文(お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)
現代語訳(お坊様、それはそうなのですが、ちょっとお断りしておかなければなりません)
原文はっきりいわれたので私はびくびくもので、
現代語訳はっきり言われたので、私はびくびくしながら、
原文(はい、はい。)
現代語訳(はい、はい)
原文(いいえ、別のことじゃござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましても断っておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)
現代語訳(いいえ、ほかのことではございませんが、私は癖で、都の話を聞くのが病のように好きなのでございます。あなたが口にふたをしていらっしゃっても、無理やり聞こうといたしますが、あなた、決してそのとき聞かせてくださいますな。よろしゅうございますか。私は無理にお尋ねします。あなたはどうしてもお話しなさいませぬ。それをぜひにと申しましても、断っておっしゃらないように、きっと念を押しておきますよ)
原文と仔細ありげなことをいった。
現代語訳と、何かわけありげなことを言った。
原文山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思うたが保つにむずかしい戒でもなし、私はただ頷くばかり。
現代語訳山の高さも谷の深さも底知れない一軒家の女の言葉だとは思ったが、守るのに難しい戒めでもないので、私はただうなずくばかりだった。
原文(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけは背きますまい。)
現代語訳(はい、よろしゅうございます。何事も、おっしゃることには背きますまい)
原文婦人は言下に打解けて、
現代語訳女はすぐに打ち解けて、
原文(さあさあ汚うございますが早くこちらへ、お寛ぎなさいまし、そうしてお洗足を上げましょうかえ。)
現代語訳(さあさあ、汚うございますが、早くこちらへ。おくつろぎなさいまし。そうして、足をお洗いいたしましょうか)
原文(いえ、それには及びませぬ、雑巾をお貸し下さいまし。ああ、それからもしそのお雑巾次手にずッぷりお絞んなすって下さると助ります、途中で大変な目に逢いましたので体を打棄りたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭こうと存じますが、恐入りますな。)
現代語訳(いえ、それには及びません。雑巾をお貸しくださいまし。ああ、それから、もしその雑巾をついでにたっぷりお絞りくださると助かります。途中でひどい目にあいましたので、体を捨ててしまいたいほど気味が悪うございまして、ひとつ背中をふこうと思うのですが、恐れ入りますな)
原文(そう、汗におなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さえ碌におもてなしもいたされませんが、あの、この裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)
現代語訳(そう、汗をおかきになりましたか。さぞまあお暑うございましたでしょう。お待ちなさいまし。宿屋にお着きになってお風呂にお入りになるのが、旅をするお方には何よりのごちそうだと申しますね。お風呂どころか、お茶さえろくにおもてなしできませんが、あの、この裏の崖を下りますと、きれいな流れがございますから、いっそそちらへいらっしゃって、お体をお流しになるのがよろしゅうございましょう)
原文聞いただけでも飛んでも行きたい。
現代語訳聞いただけでも、飛んで行きたい。
原文(ええ、それは何より結構でございますな。)
現代語訳(ええ、それは何より結構でございますな)
原文(さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米を磨ぎに参ります。)と件の桶を小脇に抱えて、縁側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板縁の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合して埃を払いて揃えてくれた。
現代語訳(さあ、それではご案内いたしましょう。どれ、ちょうど私も米をとぎに参ります)と、例の桶を小脇に抱えて縁側からわら草履をはいて出たが、かがんで板縁の下をのぞき込み、引き出したのは一足の古い下駄で、かちりと合わせてほこりを払い、そろえてくれた。
原文(お穿きなさいまし、草鞋はここにお置きなすって、)
現代語訳(おはきなさいまし。草鞋はここにお置きになって)
原文私は手をあげて、一礼して、
現代語訳私は手を上げて一礼して、
原文(恐入ります、これはどうも、)
現代語訳(恐れ入ります、これはどうも)
原文(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)まず恐しく調子がいいじゃて。」
現代語訳(お泊めすることになったからには、あの、前世からの縁とやらでございます。あなた、ご遠慮なさいますなよ)と。まず、恐ろしく愛想がいいのだ」
十二
原文「(さあ、私に跟いてこちらへ、)と件の米磨桶を引抱えて手拭を細い帯に挟んで立った。
現代語訳「(さあ、私について、こちらへ)と、例の米とぎ桶を抱え、手ぬぐいを細い帯に挟んで立った。
原文髪は房りとするのを束ねてな、櫛をはさんで簪で留めている、その姿の佳さというてはなかった。
現代語訳髪は、ふさふさとしたのを束ねてな、櫛を挿してかんざしで留めている。その姿のよさといったらなかった。
原文私も手早く草鞋を解いたから、早速古下駄を頂戴して、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿じゃ。
現代語訳私も手早く草鞋をほどいたので、さっそく古下駄をちょうだいして、縁側から立つときにちょっと見ると、ほら、例の若者だ。
原文同じく私が方をじろりと見たっけよ、舌不足が饒舌るような、愚にもつかぬ声を出して、
現代語訳同じように私の方をじろりと見たよ。舌の足りない人がしゃべるような、何とも言えない声を出して、
原文(姉や、こえ、こえ。)といいながら気だるそうに手を持上げてその蓬々と生えた天窓を撫でた。
現代語訳(ねえや、こえ、こえ)と言いながら、だるそうに手を持ち上げて、そのぼうぼうに生えた頭をなでた。
原文(坊さま、坊さま?)
現代語訳(坊さま、坊さま?)
原文すると婦人が、下ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。
現代語訳すると女が、下ぶくれの顔にえくぼを刻んで、三つばかり、はきはきと続けてうなずいた。
原文少年はうむといったが、ぐたりとしてまた臍をくりくりくり。
現代語訳若者はうむと言ったが、ぐったりとして、またへそをくりくりくり。
原文私は余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人は何事も別に気に懸けてはおらぬ様子、そのまま後へ跟いて出ようとする時、紫陽花の花の蔭からぬいと出た一名の親仁がある。
現代語訳私はあまりに気の毒で顔も上げられず、そっと盗み見るようにして見ると、女は何事も特に気にかけている様子はなく、私がそのまま女の後について出ようとしたとき、紫陽花の花の陰から、ぬっと出てきた一人の親父がいる。
原文背戸から廻って来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱の根付を紐長にぶらりと提げ、銜煙管をしながら並んで立停った。
現代語訳裏口から回ってきたらしく、草鞋をはいたまま、たばこ入れの根付けを長いひもでぶらりと下げ、キセルをくわえながら、並んで立ち止まった。
原文(和尚様おいでなさい。)
現代語訳(和尚様、いらっしゃい)
原文婦人はそなたを振向いて、
現代語訳女はそちらを振り向いて、
原文(おじ様どうでござんした。)
現代語訳(おじさん、どうでございました)
原文(さればさの、頓馬で間の抜けたというのはあのことかい。根ッから早や狐でなければ乗せ得そうにもない奴じゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人して、二月や三月はお嬢様がご不自由のねえように、翌日はものにしてうんとここへ担ぎ込みます。)
現代語訳(それがさ、とんまで間の抜けたというのは、あのことかい。根っからもう、狐でもなければだませそうにもないやつだが、そこはおらの口だ、うまく仲を取り持って、二月や三月はお嬢様がご不自由しねえように、明日は話をつけて、うんとここへ担ぎ込みますよ)
原文(お頼み申しますよ。)
現代語訳(お頼みしますよ)
原文(承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。)
現代語訳(承知、承知。おお、お嬢様、どこへ行きなさる)
原文(崖の水までちょいと。)
現代語訳(崖の水まで、ちょっと)
原文(若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張って待っとるに、)と横様に縁にのさり。
現代語訳(若いお坊様を連れて、川へ落っこちなさるなよ。おらはここで見張って待ってるから)と、横ざまに縁側にのそりと寝そべった。
原文(貴僧、あんなことを申しますよ。)と顔を見て微笑んだ。
現代語訳(お坊様、あんなことを言いますよ)と、私の顔を見てほほえんだ。
原文(一人で参りましょう、)と傍へ退くと、親仁はくっくっと笑って、
現代語訳(一人で参りましょう)とそばへ退くと、親父はくっくっと笑って、
原文(はははは、さあ、早くいってござらっせえ。)
現代語訳(ははは、さあ、早く行ってきなせえ)
原文(おじ様、今日はお前、珍しいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、私が帰るまでそこに休んでいておくれでないか。)
現代語訳(おじさん、今日はね、珍しいお客様がお二方いらっしゃったのよ。こういうときは、後からまた誰か見えるかもしれません。次郎さんだけでは、来た人がお困りでしょう。私が帰るまで、そこで休んでいてくれないかしら)
原文(いいともの。)といいかけて、親仁は少年の傍へにじり寄って、鉄挺を見たような拳で、背中をどんとくらわした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。
現代語訳(いいともさ)と言いかけて、親父は若者のそばへにじり寄り、鉄の棒のような拳で背中をどんと打った。若者の腹はだぶりと揺れて、べそをかくような口つきで、にやりと笑った。
原文私はぞっとして面を背けたが、婦人は何気ない体であった。
現代語訳私はぞっとして顔を背けたが、女は何気ない様子だった。
原文親仁は大口を開いて、
現代語訳親父は大口を開けて、
原文(留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)
現代語訳(留守の間に、おらがこの亭主を盗むぞよ)
原文(はい、ならば手柄でござんす、さあ、貴僧参りましょうか。)
現代語訳(はい、それなら手柄ですわ。さあ、お坊様、参りましょうか)
原文背後から親仁が見るように思ったが、導かるるままに壁について、かの紫陽花のある方ではない。
現代語訳後ろから親父が見ているような気がしたが、案内されるままに壁伝いに行った。あの紫陽花のある方ではない。
原文やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目を蹴るのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。
現代語訳やがて裏口と思われるところで、左手に馬小屋が見えた。ことことという音は、馬が羽目板を蹴っているのだろう。もうそのあたりから薄暗くなってくる。
原文(貴僧、ここから下りるのでございます、辷りはいたしませぬが、道が酷うございますからお静に、)という。」
現代語訳(お坊様、ここから下りるのでございます。滑りはいたしませんが、道がひどうございますから、静かに)と言う」
十三
原文「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中を潜ったが、仰ぐと梢に出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世はどこにあるか十三夜で。
現代語訳「そこから下りるのだろうと思われるところに、細くて並外れて背の高い、ひょろひょろとした松の木があって、五、六間(十メートルほど)上までは小枝一つもない。その中をくぐったが、見上げると梢の上に出て白く光る月の形は、ここでも別に変わりはなかった。浮き世はどこにあるのか、陰暦十三夜の月だった。
原文先へ立った婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まって覗くと、つい下に居た。
現代語訳先に立った女の姿が目の前から離れたので、松の幹につかまってのぞくと、すぐ下にいた。
原文仰向いて、
現代語訳あお向いて、
原文(急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧には足駄では無理でございましたかしら、宜しくば草履とお取交え申しましょう。)
現代語訳(急に低くなりますから、気をつけて。これはお坊様には、下駄では無理でございましたかしら。よろしければ草履と取り替えましょう)
原文立後れたのを歩行悩んだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭の垢を落したさ。
現代語訳遅れたのを、歩くのに難儀していると察した様子だった。何はさておき、転げ落ちても、早く行って蛭のあかを落としたいのだ。
原文(何、いけませんければ跣足になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)
現代語訳(何、だめなら裸足になるまでのこと。どうぞお構いなく。お嬢様にご心配をかけては申し訳ありません)
原文(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗に笑った。
現代語訳(あら、お嬢様ですって)と、少し調子を高くして、あでやかに笑った。
原文(はい、ただいまあの爺様が、さよう申しましたように存じますが、夫人でございますか。)
現代語訳(はい、今、あのおじいさんがそう申したように思いますが、奥様でございますか)
原文(何にしても貴僧には叔母さんくらいな年紀ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺がささりますといけません、それにじくじく湿れていてお気味が悪うございましょうから。)と向う向でいいながら衣服の片褄をぐいとあげた。真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くような。
現代語訳(何にしても、お坊様には叔母さんくらいの年ですよ。まあ、早くいらっしゃい。草履もよろしいのですけれど、とげが刺さるといけません。それにじくじくぬれていて、気味がお悪いでしょうから)と、向こうを向いたまま言いながら、着物の片方のつまをぐいと持ち上げた。真っ白なのが暗がりにまぎれて、歩くと霜が消えていくようだった。
原文ずんずんずんずんと道を下りる、傍らの叢から、のさのさと出たのは蟇で。
現代語訳ずんずんずんずんと道を下りていくと、わきの草むらから、のそのそと出てきたのはがまがえるだった。
原文(あれ、気味が悪いよ。)というと婦人は背後へ高々と踵を上げて向うへ飛んだ。
現代語訳(あら、気味が悪いよ)と言うと、女は後ろに高々とかかとを上げて、向こうへ飛んだ。
原文(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦まって、贅沢じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。
現代語訳(お客様がいらっしゃるじゃないの。人の足になんか絡まって、ぜいたくじゃないか。お前たちは虫を吸っていれば十分なんだよ。
原文貴僧ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こう云う処ですからあんなものまで人懐しゅうございます、厭じゃないかね、お前達と友達をみたようで愧しい、あれいけませんよ。)
現代語訳お坊様、どんどんいらっしゃいまし。何もしやしません。こういう所ですから、あんなものまで人懐っこいのでございます。嫌じゃないかね、お前たちと友だちみたいで恥ずかしい。ほら、だめですよ)
原文蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人はむこうへずいと。
現代語訳がまがえるはのそのそとまた草をかき分けて入っていき、女は向こうへすいと進んだ。
原文(さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊えますから地面は歩行かれません。)
現代語訳(さあ、この上に乗るのです。土が柔らかくて崩れますから、地面は歩けません)
原文いかにも大木の僵れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿で差支えがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流の音が耳に激した、それまでにはよほどの間。
現代語訳いかにも、大木の倒れたのが、草に隠れてその幹を見せている。乗ると下駄ばきでも差し支えない。丸木だが恐ろしく太いので。もっとも、これを渡りきると、たちまち流れの音が耳に激しく響いたが、それまでにはかなりの距離があった。
原文仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
現代語訳見上げると、松の木はもう影も見えない。十三夜の月はずっと低くなったが、今下りてきた山の頂に半分かかって、手が届きそうなほど鮮やかだけれども、高さはとても計り知れない。
原文(貴僧、こちらへ。)
現代語訳(お坊様、こちらへ)
原文といった婦人はもう一息、目の下に立って待っていた。
現代語訳と言った女は、もうひと息先の、目の下に立って待っていた。
原文そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一間ばかり、水に臨めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄じく岩に砕ける響がする。
現代語訳そこはもう一面の岩で、岩の上に谷川の水がかかって、ここによどみを作っている。川幅は一間(二メートル足らず)ほどで、水辺に立つと音はそれほどでもないが、その美しさは玉を溶かして流したようで、かえって遠くの方で、すさまじく岩に砕ける響きがする。
原文向う岸はまた一座の山の裾で、頂の方は真暗だが、山の端からその山腹を射る月の光に照し出された辺からは大石小石、栄螺のようなの、六尺角に切出したの、剣のようなのやら、鞠の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に蘸ったのはただ小山のよう。」
現代語訳向こう岸はまた一つの山の裾で、頂の方は真っ暗だが、山の端からその中腹を照らす月の光に照らし出されたあたりからは、大きな石、小さな石、さざえのようなもの、六尺角に切り出したようなもの、剣のようなもの、まりの形をしたものと、目の届く限り残らず岩で、だんだん大きく水につかっているものは、まるで小山のようだった」
十四
原文「(いい塩梅に今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。
現代語訳「(ちょうどよいぐあいに、今日は水が増えていますから、中に入らなくても、この上でようございます)と、足の甲を水に浸し、つま先を曲げながら、雪のような素足で平らな石の上に立っていた。
原文自分達が立った側は、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌めたような誂。川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折のような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々に岩をかがったように隠見して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くがごとく真白に翻って。
現代語訳私たちが立った側は、かえってこちらの山の裾が水に迫って、ちょうど切り込んだ穴のような形になり、そこへこの石をはめ込んだような作りだ。川上も川下も見えないが、向こうのあの岩山は、つづら折りのような形で、流れは五尺、三尺、一間ほどずつ、上流の方がだんだん遠く、飛び飛びに岩をかがったように見え隠れして、どれも月の光を浴びて銀のよろいをまとったような姿。目の前に近いものは、鎧の胴と草摺をつなぐ揺糸をさばくように、真っ白にひるがえっていた。
原文(結構な流れでございますな。)
現代語訳(結構な流れでございますな)
原文(はい、この水は源が滝でございます、この山を旅するお方は皆な大風のような音をどこかで聞きます。貴僧はこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)
現代語訳(はい、この水は源が滝でございます。この山を旅するお方は、みな大風のような音を、どこかでお聞きになります。お坊様は、こちらへいらっしゃる道でお気づきになりませんでしたか)
原文さればこそ山蛭の大藪へ入ろうという少し前からその音を。
現代語訳そういえば、山蛭の大藪に入ろうという少し前から、その音を聞いていた。
原文(あれは林へ風の当るのではございませんので?)
現代語訳(あれは、林に風が当たる音ではないのでございますか)
原文(いえ、誰でもそう申します、あの森から三里ばかり傍道へ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路が嶮しゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。その滝が荒れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐しい洪水がございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も残らず流れてしまいました。この上の洞も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)
現代語訳(いいえ、誰でもそう言います。あの森から三里ほどわき道へ入ったところに大滝があるのでございます。それはそれは日本一だそうですが、道が険しいので、十人に一人も行った者はございません。その滝が荒れたと申しまして、ちょうど今から十三年前に、恐ろしい洪水がございました。こんな高い所まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も、残らず流されてしまいました。この上の谷あいの集落も、初めは二十軒ほどあったのでございます。この流れもそのときにできました。ご覧なさいまし、このとおり、みな石が流れてきたのでございますよ)
原文婦人はいつかもう米を精げ果てて、衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反して立った、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々たる巌を照すばかり。
現代語訳女はいつの間にか、もう米をとぎ終えて、襟元の乱れた、乳房の端もほのかに見える、ふくよかな胸をそらして立った。鼻が高く、口を結んで、目をうっとりと上に向け、山頂を仰いだが、月はまだ山の中腹の、その積み重なった岩を照らすばかりだった。
原文(今でもこうやって見ますと恐いようでございます。)と屈んで二の腕の処を洗っていると。
現代語訳(今でもこうして見ると、怖いようでございます)と言うので、私がかがんで二の腕のあたりを洗っていると、
原文(あれ、貴僧、そんな行儀のいいことをしていらしってはお召が濡れます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)
現代語訳(あら、お坊様、そんなお行儀のいいことをしていらっしゃっては、お着物がぬれます。気味が悪うございますよ。すっかり裸になってお洗いなさいまし。私が流してさしあげましょう)
原文(いえ、)
現代語訳(いえ)
原文(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)というと突然背後から帯に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすっぱり脱いで取った。
現代語訳(いえ、じゃございません。ほら、ほら、衣の袖が水につかるではありませんか)と言うと、突然後ろから帯に手をかけて、私が身もだえして縮こまるのを、意地悪そうに、すっかり脱がせて取ってしまった。
原文私は師匠が厳しかったし、経を読む身体じゃ、肌さえ脱いだことはついぞ覚えぬ。しかも婦人の前、蝸牛が城を明け渡したようで、口を利くさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、膝を合せて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍らの枝へふわりとかけた。
現代語訳私は師匠が厳しかったし、お経を読む身だ。肌を脱いだことさえ一度も覚えがない。しかも女の前で、かたつむりが城を明け渡したようなもので、口をきくことさえ、まして手足を動かすこともできず、背中を丸め、ひざを合わせて縮こまっていると、女は脱がせた衣を、そばの枝にふわりとかけた。
原文(お召はこうやっておきましょう、さあお背を、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、
現代語訳(お着物はこうしておきましょう。さあ、お背中を。あらまあ、じっとして。お嬢様とおっしゃってくださったお礼に、叔母さんがお世話を焼くのでございます。お人の悪い)と言って、片袖を前歯で引き上げ、玉のような二の腕をあらわにして私の背中に乗せたが、じっと見て、
原文(まあ、)
現代語訳(まあ)
原文(どうかいたしておりますか。)
現代語訳(どうかしておりますか)
原文(痣のようになって、一面に。)
現代語訳(あざのようになって、一面に)
原文(ええ、それでございます、酷い目に逢いました。)
現代語訳(ええ、それでございます。ひどい目にあいました)
原文思い出してもぞッとするて。」
現代語訳思い出しても、ぞっとするよ」
十五
原文「婦人は驚いた顔をして、
現代語訳「女は驚いた顔をして、
原文(それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るというのはあすこでござんす。貴僧は抜道をご存じないから正面に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命も冥加なくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。しかし疼くようにお痒いのでござんしょうね。)
現代語訳(それでは、森の中で、大変でございましたこと。旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るというのは、あそこでございます。お坊様は抜け道をご存じないから、まともに蛭の巣をお通りになったのでございますよ。お命があったのも神仏のご加護というくらいで、馬でも牛でも吸い殺してしまうのでございますもの。でも、うずくようにおかゆいのでございましょうね)
原文(ただいまではもう痛みますばかりになりました。)
現代語訳(今ではもう、痛むばかりになりました)
原文(それではこんなものでこすりましては柔かいお肌が擦剥けましょう。)というと手が綿のように障った。
現代語訳(それでは、こんなものでこすっては、柔らかいお肌がすりむけましょう)と言うと、手が綿のように触れた。
原文それから両方の肩から、背、横腹、臀、さらさら水をかけてはさすってくれる。
現代語訳それから両方の肩から、背中、わき腹、お尻へと、さらさらと水をかけては、さすってくれる。
原文それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。暑い時分じゃが、理窟をいうとこうではあるまい、私の血が沸いたせいか、婦人の温気か、手で洗ってくれる水がいい工合に身に染みる、もっとも質の佳い水は柔かじゃそうな。
現代語訳それがさ、骨まで通って冷たいかというと、そうではなかった。暑い時季だが、理屈を言えばこうではあるまい。私の血が沸いたせいか、女のぬくもりのせいか、手で洗ってくれる水が、いいぐあいに身にしみる。もっとも、質のよい水は柔らかいそうだ。
原文その心地の得もいわれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合。
現代語訳その心地よさといったら何とも言えず、眠気がさしたわけでもあるまいが、うとうとするような様子で、傷の痛みもなくなり、気が遠くなって、ぴったりと寄り添っている女の体で、私は花びらの中に包まれたような気分だった。
原文山家の者には肖合わぬ、都にも希な器量はいうに及ばぬが弱々しそうな風采じゃ、背中を流す中にもはッはッと内証で呼吸がはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚で、気はつきながら洗わした。
現代語訳山の家の者には似合わない、都にもまれな器量であることは言うまでもないが、か弱そうな姿だ。背中を流しているうちにも、はっ、はっと、ひそかに息がはずむので、もう断ろう、断ろうと思いながら、例のうっとりとした気分で、気がつきながら洗わせていた。
原文その上、山の気か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息じゃろうと思った。」
現代語訳そのうえ、山の気なのか、女の香りなのか、ほんのりとよい香りがする。私は、後ろでつく息なのだろうと思った」
原文上人はちょっと句切って、
現代語訳お坊さんはちょっと話を区切って、
原文「いや、お前様お手近じゃ、その明を掻き立ってもらいたい、暗いと怪しからぬ話じゃ、ここらから一番野面で遣つけよう。」
現代語訳「いや、あなたの手の近くだ。その明かりをかき立ててもらいたい。暗いと、けしからん話だ。このあたりから一番、大胆にやってのけよう」
原文枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなっていた、早速燈心を明くすると、上人は微笑みながら続けたのである。
現代語訳枕を並べたお坊さんの姿もぼんやりするほど、明かりは暗くなっていた。すぐに灯心を明るくすると、お坊さんはほほえみながら話を続けた。
原文「さあ、そうやっていつの間にやら現とも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に天窓まで一面に被ったから吃驚、石に尻餅を搗いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後から肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。
現代語訳「さあ、そうしているうちに、いつの間にか夢ともうつつともつかず、こう、その不思議な、よい香りのする暖かい花の中に柔らかく包まれて、足、腰、手、肩、首から、しだいに頭まで一面に覆われたので、びっくりして石の上に尻もちをつき、足を水の中に投げ出したので、落ちると思ったとたん、女の手が後ろから肩越しに胸を押さえたので、しっかりとつかまった。
原文(貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)という胸にある手を取ったのを、慌てて放して棒のように立った。
現代語訳(お坊様、おそばにいて汗臭くはございませんか。とんだ暑がりなものですから、こうしていましても、こんなでございますよ)と言う、胸にある手を取っていたのを、慌てて放して、棒のように立ち上がった。
原文(失礼、)
現代語訳(失礼)
原文(いいえ誰も見ておりはしませんよ。)と澄して言う、婦人もいつの間にか衣服を脱いで全身を練絹のように露していたのじゃ。
現代語訳(いいえ、誰も見ておりはしませんよ)と、すまして言う。女もいつの間にか着物を脱いで、全身を練り絹のようにあらわにしていたのだ。
原文何と驚くまいことか。
現代語訳なんと、驚かずにいられようか。
原文(こんなに太っておりますから、もうお愧しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧、お手拭。)といって絞ったのを寄越した。
現代語訳(こんなに太っていますから、もう恥ずかしいほど暑いのでございます。この時季は毎日二度も三度も来ては、こうして汗を流します。この水がなかったら、どうしましょう。お坊様、お手ぬぐいを)と言って、絞ったのを寄こした。
原文(それでおみ足をお拭きなさいまし。)
現代語訳(それで、おみ足をおふきなさいまし)
原文いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐多いが、はははははは。」
現代語訳いつの間にか、体はちゃんとふいてあった。お話しするのも恐れ多いが、はははははは」
十六
原文「なるほど見たところ、衣服を着た時の姿とは違うて肉つきの豊な、ふっくりとした膚。
現代語訳「なるほど見たところ、着物を着ていたときの姿とは違って、肉づきの豊かな、ふっくらとした肌だ。
原文(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)
現代語訳(さっき小屋に入って世話をしたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体じゅうにかかって、気味が悪うございます。ちょうどよいので、私も体をふきましょう)
原文と姉弟が内端話をするような調子。手をあげて黒髪をおさえながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅になって流れよう。
現代語訳と、姉と弟が内輪話をするような調子だ。手を上げて黒髪を押さえながら、わきの下を手ぬぐいでぐいとふき、後を両手で絞りながら立った姿は、ただもう雪のようなものを、このような霊水で清めたかのようで、こういう女の汗は、薄紅色になって流れるのだろう。
原文ちょいちょいと櫛を入れて、
現代語訳ちょいちょいと櫛を入れて、
原文(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたらどうしましょう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)
現代語訳(まあ、女がこんなおてんばをして、川へ落っこちたらどうしましょう。川下へ流れていったら、村里の人は何と思って見るでしょうね)
原文(白桃の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。
現代語訳(白桃の花だと思うでしょう)と、ふと思いついて何の気なしに言うと、顔が合った。
原文すると、さも嬉しそうに莞爾してその時だけは初々しゅう年紀も七ツ八ツ若やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。
現代語訳すると、いかにもうれしそうににっこりして、そのときだけは初々しく、年も七つ八つ若返ったようになり、乙女の恥じらいを含んでうつむいた。
原文私はそのまま目を外らしたが、その一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸の潵に濡れて黒い、滑かな大きな石へ蒼味を帯びて透通って映るように見えた。
現代語訳私はそのまま目をそらしたが、そのひとときの女の姿が、月の光を浴びて、薄い煙に包まれながら、向こう岸の水しぶきにぬれて黒い、なめらかな大きな石に、青みを帯びて透き通って映っているように見えた。
原文するとね、夜目で判然とは目に入らなんだが地体何でも洞穴があるとみえる。ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠が目を遮った。
現代語訳するとね、夜目ではっきりとは見えなかったが、そもそもどこかに洞穴があるらしい。ひらひらと、こちらからもひらひらと、鳥ほどもあろうかという大こうもりが目の前をさえぎった。
原文(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)
現代語訳(あら、だめだよ。お客様がいるじゃないの)
原文不意を打たれたように叫んで身悶えをしたのは婦人。
現代語訳不意を打たれたように叫んで身もだえしたのは、女だった。
原文(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣を着たから気丈夫に尋ねる。
現代語訳(どうかなさいましたか)もうちゃんと衣を着ていたので、気丈に尋ねた。
原文(いいえ、)
現代語訳(いいえ)
原文といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向になった。
現代語訳と言っただけで、きまりが悪そうに、くるりと後ろを向いた。
原文その時小犬ほどな鼠色の小坊主が、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖から横に宙をひょいと、背後から婦人の背中へぴったり。
現代語訳そのとき、小犬ほどのねずみ色の小坊主のようなものが、ちょこちょことやって来て、あっと思う間に、崖から横に宙をひょいと飛び、後ろから女の背中にぴったりと。
原文裸体の立姿は腰から消えたようになって、抱ついたものがある。
現代語訳裸の立ち姿が、腰から消えたようになって、抱きついたものがある。
原文(畜生、お客様が見えないかい。)
現代語訳(こいつめ、お客様が見えないのかい)
原文と声に怒を帯びたが、
現代語訳と声に怒りを帯びたが、
原文(お前達は生意気だよ、)と激しくいいさま、腋の下から覗こうとした件の動物の天窓を振返りさまにくらわしたで。
現代語訳(お前たちは生意気だよ)と激しく言うやいなや、わきの下からのぞこうとしたその生き物の頭を、振り返りざまにぴしゃりとたたいた。
原文キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛びにまた宙を飛んで、今まで法衣をかけておいた、枝の尖へ長い手で釣し下ったと思うと、くるりと釣瓶覆に上へ乗って、それなりさらさらと木登をしたのは、何と猿じゃあるまいか。
現代語訳きっ、きっと奇声を上げて、その小坊主のようなものは、そのまま後ろへ飛んでまた宙を飛び、今まで衣をかけておいた枝の先に長い手でぶら下がったかと思うと、くるりとつるべを返すように上に乗って、そのままさらさらと木に登ったのは、なんと猿ではないか。
原文枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢まで、かさかさがさり。
現代語訳枝から枝へと伝っていくとみえて、見上げるほど高い木の、やがてこずえまで、かさかさ、がさり。
原文まばらに葉の中を透して月は山の端を放れた、その梢のあたり。
現代語訳まばらな葉の間を透かして、月は山の端を離れていた。そのこずえのあたりに。
原文婦人はものに拗ねたよう、今の悪戯、いや、毎々、蟇と蝙蝠と、お猿で三度じゃ。
現代語訳女は何かにすねたような様子だった。今のいたずら――いや、たびたびのことで、がまがえると、こうもりと、猿とで三度目だ。
原文その悪戯に多く機嫌を損ねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様には得てある図じゃ。
現代語訳そのいたずらにすっかり機嫌を損ねたという様子で、子どもがあまりはしゃぎすぎると、若い母親によくある光景だ。
原文本当に怒り出す。
現代語訳本気で怒り出す。
原文といった風情で面倒臭そうに衣服を着ていたから、私は何にも問わずに小さくなって黙って控えた。」
現代語訳といった様子で、面倒くさそうに着物を着ていたので、私は何も尋ねずに小さくなって、黙って控えていた」
十七
原文「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応のあるといったような風の婦人、かく嬌瞋を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産が安い。
現代語訳「優しい中にも強さがあり、気軽そうに見えてもどこかに落ち着きがあり、なれなれしいようでいて侵しがたい品のよさがあり、どんなことにも、いざとなれば驚くには足らないという、身に備わったものがあるといった風の女だ。それがこうしてすねて怒りを見せたからには、きっとよいことはあるまい。今この女に冷たくされては、木から落ちた猿も同然だと、おっかなびっくり、おずおずと控えていたが、いや、案ずるより産むがやすしだった。
原文(貴僧、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑みながら、
現代語訳(お坊様、さぞおかしかったでございましょうね)と、自分でも思い出したように、気持ちよくほほえみながら、
原文(しようがないのでございますよ。)
現代語訳(しかたがないのでございますよ)
原文以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、
現代語訳以前と変わらず気さくになった。帯ももう締めたので、
原文(それでは家へ帰りましょう。)と米磨桶を小腋にして、草履を引かけてつと崖へ上った。
現代語訳(それでは家へ帰りましょう)と米とぎ桶を小脇に抱え、草履をつっかけて、すっと崖に上った。
原文(お危うござんすから。)
現代語訳(お危のうございますから)
原文(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)
現代語訳(いえ、もうだいぶ勝手が分かっております)
原文ずッと心得た意じゃったが、さて上る時見ると思いの外上までは大層高い。
現代語訳すっかり心得たつもりだったが、さて上るときに見ると、思いのほか上までは大層高い。
原文やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗のようで、譬にもよくいうが松の木は蝮に似ているで。
現代語訳やがてまた例の丸太を渡るのだが、さっきも言ったとおり、草の中に横倒しになっている木の地肌が、ちょうどうろこのようで、たとえにもよく言うが、松の木はまむしに似ている。
原文殊に崖を、上の方へ、いい塩梅に蜿った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然とそれ。
現代語訳ことに崖の上の方へ、ぐあいよくうねっている様子が、とんでもないものにうってつけで、これほど太い胴の蛇が、と思うと、頭と尾を草に隠して、月明かりにありありと、それ。
原文山路の時を思い出すと我ながら足が竦む。
現代語訳山道でのことを思い出すと、我ながら足がすくむ。
原文婦人は深切に後を気遣うては気を付けてくれる。
現代語訳女は親切に、後ろの私を気づかって、気をつけてくれる。
原文(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻うと悪うござんす。)
現代語訳(それをお渡りになるとき、下を見てはいけません。ちょうど途中で、ずいぶん谷が深くなっていますから、目が回るといけません)
原文(はい。)
現代語訳(はい)
原文愚図愚図してはいられぬから、我身を笑いつけて、まず乗った。引かかるよう、刻が入れてあるのじゃから、気さえ確なら足駄でも歩行かれる。
現代語訳ぐずぐずしてはいられないので、自分で自分を笑い飛ばして、まず乗った。足が引っかかるように刻み目が入れてあるので、気さえしっかりしていれば、下駄でも歩ける。
原文それがさ、一件じゃから耐らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這いそうじゃから、わっというと引跨いで腰をどさり。
現代語訳それがさ、例の一件があるからたまらない。乗るとこう、ぐらぐらして、柔らかくずるずるとはい出しそうなので、わっと言って、またがって腰をどさりと落とした。
原文(ああ、意気地はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお穿き換えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯くんですよ。)
現代語訳(ああ、意気地がございませんねえ。下駄では無理でございましょう。これとおはき替えなさいまし。あらまあ、ちゃんと言うことを聞くんですよ)
原文私はそのさっきから何んとなくこの婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。
現代語訳私はさっきから、何となくこの女に畏れ敬う気持ちが生じていて、よいのか悪いのか、どのみち命令されているように思われたので、言われるままに草履をはいた。
原文するとお聞きなさい、婦人は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
現代語訳するとお聞きなさい、女は下駄をはきながら、私の手を取ってくれる。
原文たちまち身が軽くなったように覚えて、訳なく後に従って、ひょいとあの孤家の背戸の端へ出た。
現代語訳たちまち体が軽くなったように感じて、わけもなく後に従い、ひょいとあの一軒家の裏口の端へ出た。
原文出会頭に声を懸けたものがある。
現代語訳出会いがしらに声をかけた者がいる。
原文(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様旧の体で帰らっしゃったの。)
現代語訳(やあ、だいぶ手間がかかると思ったのに、お坊様、元の体のままで帰ってきなさったか)
原文(何をいうんだね、小父様家の番はどうおしだ。)
現代語訳(何を言うんだね。おじさん、家の留守番はどうしたの)
原文(もういい時分じゃ、また私も余り遅うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度しておこうと思うてよ。)
現代語訳(もういい時分だ。それにおらも、あんまり遅くなっては道が困るで、そろそろ青(馬)を引き出して支度しておこうと思ってよ)
原文(それはお待遠でござんした。)
現代語訳(それはお待たせしました)
原文(何さ、行ってみさっしゃいご亭主は無事じゃ、いやなかなか私が手には口説落されなんだ、ははははは。)と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてくてくと行った。
現代語訳(何さ、行ってみなされ、ご亭主は無事だ。いや、なかなかおらの手には口説き落とされなかったよ、はははは)と、意味もないことを大笑いして、親父は馬小屋の方へとことこと歩いていった。
原文白痴はおなじ処になお形を存している、海月も日にあたらねば解けぬとみえる。」
現代語訳若者は、同じ場所にまだそのままの姿でいる。くらげも日に当たらなければ溶けないとみえる」
十八
原文「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を廻る鰭爪の音が縁へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引き出した。
現代語訳「ひひいん! しっ、どうどうどう、と裏口を回るひづめの音が縁側に響いて、親父は一頭の馬を門の前に引き出した。
原文轡頭を取って立ちはだかり、
現代語訳くつわを取って立ちはだかり、
原文(嬢様そんならこのままで私参りやする、はい、ご坊様にたくさんご馳走して上げなされ。)
現代語訳(お嬢様、それならこのままで、おらは参りますで。はい、お坊様にたくさんごちそうしてあげなされ)
原文婦人は炉縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を燻していたが、振仰ぎ、鉄の火箸を持った手を膝に置いて、
現代語訳女は囲炉裏の縁に行灯を引き寄せ、うつむいて鍋の下の火をいぶしていたが、振り仰いで、鉄の火ばしを持った手をひざに置き、
原文(ご苦労でござんす。)
現代語訳(ご苦労さま)
原文(いんえご懇には及びましねえ。しっ!)と荒縄の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡じゃわい。
現代語訳(いいえ、ご丁寧には及びませんよ。しっ!)と荒縄の手綱を引く。青毛で、白い毛の混じった葦毛の、裸馬でたくましいが、たてがみの薄い雄馬だ。
原文その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿の背後に畏って手持不沙汰じゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、
現代語訳その馬がさ、私も別に馬が珍しいわけではないが、例の若者の後ろにかしこまっていて手持ちぶさただったので、今引いていこうとするときに、縁側へひらりと出て、
原文(その馬はどこへ。)
現代語訳(その馬はどこへ)
原文(おお、諏訪の湖の辺まで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝お坊様が歩行かっしゃる山路を越えて行きやす。)
現代語訳(おお、諏訪湖のあたりまで、馬市へ出しますのじゃ。これから、明朝お坊様が歩きなさる山道を越えて行きます)
原文(もし、それへ乗って今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)
現代語訳(もし、それに乗って、今から逃げ出そうというおつもりではないでしょうね)
原文婦人は慌だしく遮って声を懸けた。
現代語訳女が慌ただしくさえぎって、声をかけた。
原文(いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)
現代語訳(いえ、もったいない。修行の身が、馬で足を休めようなどとは思いもよりません)
原文(何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人しゅうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰わっしゃい。さようならちょっくら行って参りますよ。)
現代語訳(どうせ人間を乗せられそうな馬じゃございません。お坊様は命拾いをなされたのじゃから、おとなしくして、お嬢様の袖の中で、今夜は助けてもらいなされ。それでは、ちょっと行ってまいりますよ)
原文(あい。)
現代語訳(はい)
原文(畜生。)といったが馬は出ないわ。びくびくと蠢いて見える大な鼻面をこちらへ捻じ向けてしきりに私等が居る方を見る様子。
現代語訳(こいつめ)と言ったが、馬は出ない。びくびくとうごめいて見える大きな鼻面をこちらへねじ向けて、しきりに私たちのいる方を見ている様子だ。
原文(どうどうどう、畜生これあだけた獣じゃ、やい!)
現代語訳(どうどうどう、こいつめ、これはふざけた獣だ、やい!)
原文右左にして綱を引張ったが、脚から根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。
現代語訳右に左に手綱を引っ張ったが、足から根が生えたように、ぬっと立っていて、びくともしない。
原文親仁大いに苛立って、叩いたり、打ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。肩でぶッつかるようにして横腹へ体をあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚を突張り抜く。
現代語訳親父は大いにいら立って、たたいたり打ったり、馬の胴体について二、三度ぐるぐる回ったが、少しも歩かない。肩でぶつかるようにして横腹に体当たりしたとき、ようやく前足を上げただけで、また四本の足を突っ張りきってしまう。
原文(嬢様嬢様。)
現代語訳(お嬢様、お嬢様)
原文と親仁が喚くと、婦人はちょっと立って白い爪さきをちょろちょろと真黒に煤けた太い柱を楯に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
現代語訳と親父がわめくと、女はちょっと立って、白いつま先をちょろちょろと動かし、真っ黒にすすけた太い柱を盾にして、馬の目が届かないように少し隠れた。
原文その内腰に挟んだ、煮染めたような、なえなえの手拭を抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁はこれでよしという気組、再び前へ廻ったが、旧によって貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を揃えて反返るようにして、うむと総身に力を入れた。とたんにどうじゃい。
現代語訳そのうち、親父は腰に挟んだ、煮しめたようなよれよれの手ぬぐいを抜いて、くっきりと刻まれた額のしわの汗をていねいにふき、これでよしという意気込みで、再び前に回ったが、相変わらずびくともしないので、手綱に両手をかけ、足をそろえて反り返るようにして、うむと全身に力を入れた。とたんに、どうだろう。
原文凄じく嘶いて前足を両方中空へ翻したから、小さな親仁は仰向けに引くりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
現代語訳馬がすさまじくいなないて、前足を両方とも宙に振り上げたので、小柄な親父はあお向けにひっくり返った。ずどん、どう、と、月夜に砂煙がぱっと立った。
原文白痴にもこれは可笑しかったろう、この時ばかりじゃ、真直に首を据えて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出して、あの宙へ下げている手を風で煽るように、はらりはらり。
現代語訳若者にもこれはおかしかったのだろう。このときばかりは首をまっすぐに据えて、厚い唇をばくりと開け、大粒の歯をむき出しにして、あの宙に下げている手を、風であおるように、はらり、はらりと振った。
原文(世話が焼けることねえ、)
現代語訳(世話が焼けることねえ)
原文婦人は投げるようにいって草履を突かけて土間へついと出る。
現代語訳女は投げるように言って、草履をつっかけ、土間へすっと出た。
原文(嬢様勘違いさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁があるだッぺいわさ。)
現代語訳(お嬢様、勘違いしなさるな。これはお前様ではないぞ。何でも初めから、そこのお坊様に目をつけていたっけよ。こいつめ、俗世の縁でもあるんだろうさ)
原文俗縁は驚いたい。
現代語訳俗世の縁とは驚いたよ。
原文すると婦人が、
現代語訳すると女が、
原文(貴僧ここへいらっしゃる路で誰にかお逢いなさりはしませんか。)」
現代語訳(お坊様、ここへいらっしゃる道で、誰かにお会いになりはしませんでしたか)」
十九
原文「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売に逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。)
現代語訳「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売り(薬売り)に会いましたが、一足先に、やはりこの道に入りました)
原文(ああ、そう。)と会心の笑を洩して婦人は蘆毛の方を見た、およそ耐らなく可笑しいといったはしたない風采で。
現代語訳(ああ、そう)と、思いどおりという笑いを漏らして、女は葦毛の馬の方を見た。いかにもおかしくてたまらないといった、はしたない様子で。
原文極めて与し易う見えたので、
現代語訳とても話しかけやすそうに見えたので、
原文(もしや此家へ参りませなんだでございましょうか。)
現代語訳(もしや、この家に来ませんでしたでしょうか)
原文(いいえ、存じません。)という時たちまち犯すべからざる者になったから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を払うている馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、
現代語訳(いいえ、存じません)と言ったとき、たちまち侵しがたい様子になったので、私が口をつぐむと、女は、さじを投げて着物のほこりを払っている、馬の前足の下の小柄な親父の方を見て、
原文(しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端が土へ引こうとするのを、掻取ってちょいと猶予う。
現代語訳(しょうがないねえ)と言いながら、かなぐり捨てるようにして、その細帯を解きかけた。片方の端が土に引きずられそうになるのを、すくい取って、ちょっとためらう。
原文(ああ、ああ。)と濁った声を出して白痴が件のひょろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡してやると、風呂敷を寛げたような、他愛のない、力のない、膝の上へわがねて宝物を守護するようじゃ。
現代語訳(ああ、ああ)と濁った声を出して、若者が例のひょろりとした手を差し出したので、女が解いた帯を渡してやると、風呂敷を広げたような、しまりのない、力のない、ひざの上に丸めて置いて、宝物を守るようにしている。
原文婦人は衣紋を抱き合せ、乳の下でおさえながら静に土間を出て馬の傍へつつと寄った。
現代語訳女は襟元をかき合わせ、胸の下で押さえながら、静かに土間を出て、馬のそばへすっと寄った。
原文私はただ呆気に取られて見ていると、爪立をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。
現代語訳私がただあっけにとられて見ていると、つま先立ちをして伸び上がり、手をしなやかに空の方へ差し伸べて、二、三度たてがみをなでた。
原文大きな鼻頭の正面にすっくりと立った。丈もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚となった有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風はとみに失せて、神か、魔かと思われる。
現代語訳そして大きな鼻先の真正面に、すっくと立った。背丈も、すらすらと急に高くなったように見えた。女は目を据え、口を結び、眉を開いて、うっとりとした様子で、愛嬌も色っぽさも、世話好きな打ち解けた様子も、たちまち消え失せて、神か魔物かと思われた。
原文その時裏の山、向うの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴を向け、頭を擡げて、この一落の別天地、親仁を下手に控え、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くがごとく、陰々として深山の気が籠って来た。
現代語訳そのとき、裏の山も、向こうの峰も、前後左右にすくすくとそびえる山々が、一つ一つくちばしを向け、頭をもたげて、この一つの別天地――親父を下手に控え、馬に向かってたたずむ月下の美女の姿を、のぞき込むかのように、陰々として、深山の気がこもってきた。
原文生ぬるい風のような気勢がすると思うと、左の肩から片膚を脱いだが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣を円げて持ち、霞も絡わぬ姿になった。
現代語訳生ぬるい風のような気配がしたと思うと、女は左の肩から片肌を脱ぎ、右の手を抜いて前へ回し、ふくらんだ胸のあたりで、着ていたその単衣を丸めて持ち、霞さえまとわない姿になった。
原文馬は背、腹の皮を弛めて汗もしとどに流れんばかり、突張った脚もなよなよとして身震をしたが、鼻面を地につけて一掴の白泡を吹出したと思うと前足を折ろうとする。
現代語訳馬は背中や腹の皮をゆるめ、汗もしとどに流れんばかりで、突っ張った足もなよなよとして身震いしたが、鼻面を地面につけて、ひとつかみの白い泡を吹き出したかと思うと、前足を折ろうとする。
原文その時、頤の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽うが否や、兎は躍って、仰向けざまに身を翻し、妖気を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挟ったと思うと、衣を脱して掻取りながら下腹をつと潜って横に抜けて出た。
現代語訳そのとき、女は馬のあごの下に手をかけ、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を覆うやいなや、兎が躍るように、あお向けざまに身をひるがえし、妖しい気配を込めたぼんやりとした月明かりの中で、前足の間に肌が挟まったかと思うと、衣を外してかき取りながら、馬の下腹をすっとくぐって、横へ抜け出た。
原文親仁は差心得たものと見える、この機かけに手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間に眼界を遠ざかる。
現代語訳親父は心得たものとみえる。このきっかけで手綱を引いたので、馬はすたすたと健脚を山道に上げた。しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん――見る間に視界から遠ざかっていく。
原文婦人は早や衣服を引かけて縁側へ入って来て、突然帯を取ろうとすると、白痴は惜しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人の胸を圧えようとした。
現代語訳女はもう着物を引っかけて縁側に入ってきて、すぐに帯を取ろうとすると、若者は惜しそうに押さえて放さず、手を上げて、女の胸を押さえようとした。
原文邪慳に払い退けて、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭を垂れた、すべての光景は行燈の火も幽に幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎先を立てたので、婦人はつと走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり遥に馬子歌が聞えたて。」
現代語訳女は冷たく払いのけ、きっとにらんでみせると、若者はそのままがっくりと頭を垂れた。すべての光景は、行灯の火もかすかで、幻のように見えたが、囲炉裏にくべた柴がひらひらと炎を立てたので、女はさっと走って中に入った。空の月の裏側を行くかと思われるあたりから、はるかに馬子歌が聞こえてきたよ」
二十
原文「さて、それからご飯の時じゃ、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころではござらぬ。
現代語訳「さて、それから食事のときだ。膳には山の家の漬物、しょうがの漬けたのと、わかめをゆでたのと、塩漬けの名も知らないきのこの味噌汁。いや、とてもにんじんとかんぴょうどころではない。
原文品物は侘しいが、なかなかのお手料理、餓えてはいるし、冥加至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に肱をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。
現代語訳品物はわびしいが、なかなかの手料理で、腹は減っているし、もったいないほどのお給仕で、女はお盆をひざに構え、その上にひじをついて頬を支えながら、うれしそうに見ていたよ。
原文縁側に居た白痴は誰も取合ぬ徒然に堪えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出して、婦人の傍へその便々たる腹を持って来たが、崩れたように胡坐して、しきりにこう我が膳を視めて、指をした。
現代語訳縁側にいた若者は、誰も相手にしない退屈さに耐えられなくなったのか、ぐだぐだとひざで進み出て、女のそばにその大きな腹を持ってきて、崩れたようにあぐらをかき、しきりにこう、私の膳を眺めて指さした。
原文(うううう、うううう。)
現代語訳(うううう、うううう)
原文(何でございますね、あとでお食んなさい、お客様じゃあありませんか。)
現代語訳(何ですね。後でお食べなさい。お客様じゃありませんか)
原文白痴は情ない顔をして口を曲めながら頭を掉った。
現代語訳若者は情けない顔をして、口をゆがめながら頭を振った。
原文(厭? しょうがありませんね、それじゃご一所に召しあがれ。貴僧、ご免を蒙りますよ。)
現代語訳(嫌? しょうがありませんね。それじゃ、ご一緒に召し上がれ。お坊様、失礼させていただきますよ)
原文私は思わず箸を置いて、
現代語訳私は思わず箸を置いて、
原文(さあどうぞお構いなく、とんだご雑作を頂きます。)
現代語訳(さあ、どうぞお構いなく。とんだごちそうをいただきます)
原文(いえ、何の貴僧。お前さん後ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。困った人でございますよ。)とそらさぬ愛想、手早くおなじような膳を拵えてならべて出した。
現代語訳(いえ、何のお坊様。お前さん、後で私と一緒に食べればいいのに。困った人でございますよ)と、行き届いた愛想で、手早く同じような膳をこしらえて並べて出した。
原文飯のつけようも効々しい女房ぶり、しかも何となく奥床しい、上品な、高家の風がある。
現代語訳ご飯のよそい方も、かいがいしい女房ぶりで、しかも何となく奥ゆかしく上品で、名家の風格がある。
原文白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めていたが、
現代語訳若者はどんよりした目を上げて、膳の上をにらんでいたが、
原文(あれを、ああ、ああ、あれ。)といってきょろきょろと四辺を眗す。
現代語訳(あれを、ああ、ああ、あれ)と言って、きょろきょろとあたりを見回す。
原文婦人はじっと瞻って、
現代語訳女はじっと見つめて、
原文(まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)
現代語訳(まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食べられます。今夜はお客様がありますよ)
原文(うむ、いや、いや。)と肩腹を揺ったが、べそを掻いて泣出しそう。
現代語訳(うむ、いや、いや)と肩や腹を揺すったが、べそをかいて泣き出しそうだ。
原文婦人は困じ果てたらしい、傍のものの気の毒さ。
現代語訳女はほとほと困り果てたらしく、そばにいる者まで気の毒になる。
原文(嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。私にお気遣はかえって心苦しゅうござります。)と慇懃にいうた。
現代語訳(お嬢様、何か存じませんが、おっしゃるとおりにしてあげなさったらよいではございませんか。私にお気づかいいただくのは、かえって心苦しゅうございます)と、丁寧に言った。
原文婦人はまたもう一度、
現代語訳女はまたもう一度、
原文(厭かい、これでは悪いのかい。)
現代語訳(嫌かい、これではだめなのかい)
原文白痴が泣出しそうにすると、さも怨めしげに流眄に見ながら、こわれごわれになった戸棚の中から、鉢に入ったのを取り出して手早く白痴の膳につけた。
現代語訳若者が泣き出しそうにすると、いかにも恨めしそうに横目で見ながら、壊れかけた戸棚の中から鉢に入ったものを取り出して、手早く若者の膳につけた。
原文(はい。)と故とらしく、すねたようにいって笑顔造。
現代語訳(はい)と、わざとすねたように言って、笑顔をつくった。
原文はてさて迷惑な、こりゃ目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸焼か、災難が軽うても、赤蛙の干物を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老沢庵。
現代語訳はてさて、困ったことだ。これは目の前で、黄色い蛇の甘煮か、子を宿した猿の蒸し焼きか、災難が軽くても、赤蛙の干物を大口でしゃぶるのだろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながらつかみ出したのは、古漬けのたくあんだった。
原文それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太なのを横銜えにしてやらかすのじゃ。
現代語訳それもさ、刻んだものではなく、一本を三つ切りにしたかという握り太いのを、横ぐわえにしてやるのだ。
原文婦人はよくよくあしらいかねたか、盗むように私を見てさっと顔を赭らめて初心らしい、そんな質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。
現代語訳女はよくよく扱いかねたのか、盗むように私を見て、さっと顔を赤らめ、初々しく、そんな性質でもあるまいに、恥ずかしそうに、ひざの上の手ぬぐいの端を口に当てた。
原文なるほどこの少年はこれであろう、身体は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食を平らげて湯ともいわず、ふッふッと大儀そうに呼吸を向うへ吐くわさ。
現代語訳なるほど、この若者はこれなのだろう。体はたくあん色に太っている。やがてわけもなく食べ物を平らげて、お湯ともいわず、ふっ、ふっと、大儀そうに息を向こうへ吐いたよ。
原文(何でございますか、私は胸に支えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後ほどに頂きましょう、)
現代語訳(何でございますか、私は胸がつかえたようで、少しも欲しくございませんから、また後でいただきましょう)
原文と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」
現代語訳と、女は自分は箸も取らずに、二つの膳を片づけてな」
二十一
原文「しばらくしょんぼりしていたっけ。
現代語訳「しばらく、しょんぼりしていたっけ。
原文(貴僧、さぞお疲労、すぐにお休ませ申しましょうか。)
現代語訳(お坊様、さぞお疲れでしょう。すぐにお休みになりますか)
原文(難有う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥もすっかり復りました。)
現代語訳(ありがとうございます。まだ少しも眠くはございません。さっき体を洗いましたので、疲れもすっかり取れました)
原文(あの流れはどんな病にでもよく利きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕も残らず雪になりましても、貴僧が行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠れません、そうしていきりが立ちます。
現代語訳(あの流れは、どんな病気にでもよく効きます。私が苦労をして、骨と皮ばかりに体がやつれてしまっても、半日あそこにつかっておりますと、みずみずしくなるのでございますよ。もっとも、あの、これから冬になって山がすっかり凍りつき、川も崖も残らず雪になっても、お坊様が水浴びをなさったあそこだけは水が隠れません。そして湯気が立ちます。
原文鉄砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折った五位鷺、種々なものが浴みに参りますからその足跡で崕の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。
現代語訳鉄砲傷のある猿だの、お坊様、足を折った五位鷺だの、いろいろなものが湯あみに来ますので、その足跡で崖に道ができるくらいです。きっとそれが効いたのでございましょう。
原文そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂しくってなりません、本当にお愧しゅうございますが、こんな山の中に引籠っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。
現代語訳そんなに眠くないのでしたら、こうしてお話をなさってくださいまし。寂しくてなりません。本当にお恥ずかしいのですが、こんな山の中に引きこもっておりますと、物を言うことも忘れてしまったようで、心細いのでございますよ。
原文貴僧、それでもお眠ければご遠慮なさいますなえ。別にお寝室と申してもございませんがその代り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに来た時蚊帳を釣って寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子を貸せいと喚いたと申して嬲るのでございます。
現代語訳お坊様、それでもお眠ければ、ご遠慮なさいますな。特に寝室というものもございませんが、その代わり蚊は一匹もいませんよ。町の方ではね、上の谷あいの集落の者は、里に泊まりに来たとき、蚊帳をつって寝かせようとすると、どうやって入るのか分からないので、はしごを貸せとわめいた、と言ってからかうのでございます。
原文たんと朝寐を遊ばしても鐘は聞えず、鶏も鳴きません、犬だっておりませんからお心安うござんしょう。
現代語訳たっぷり朝寝をなさっても、鐘は聞こえず、鶏も鳴きません。犬だっておりませんから、ご安心でございましょう。
原文この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置はないのでござんす。
現代語訳この人も生まれ落ちてからずっとこの山で育ったので、何も知りませんが、その代わり気のいい人で、少しもお気づかいはいらないのでございます。
原文それでも風俗のかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀をすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶をいたしませんね。この頃は体がだるいと見えてお惰けさんになんなすったよ。いいえ、まるで愚なのではございません、何でもちゃんと心得ております。
現代語訳それでも、見慣れない身なりのお方がいらっしゃると、大事にしてお辞儀をすることだけは知っているのですが、まだごあいさつをいたしませんね。このごろは体がだるいとみえて、怠け者になってしまったのですよ。いいえ、まるで何も分からないのではございません。何でもちゃんと心得ております。
原文さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。まあ、お辞儀をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差し覗いて、いそいそしていうと、白痴はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。
現代語訳さあ、お坊様にごあいさつをしてください。まあ、お辞儀をお忘れかい)と、親しげに身を寄せ、顔をのぞき込んで、いそいそと言うと、若者はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたように、がっくりと一礼した。
原文(はい、)といって私も何か胸が迫って頭を下げた。
現代語訳(はい)と言って、私も何か胸が詰まって、頭を下げた。
原文そのままその俯向いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人は優しゅう扶け起して、
現代語訳そのまま、そのうつむいた拍子に体の力が抜けたらしく、横に倒れそうになるのを、女はやさしく助け起こして、
原文(おお、よくしたねえ。)
現代語訳(おお、よくできたねえ)
原文天晴といいたそうな顔色で、
現代語訳あっぱれと言いたそうな顔つきで、
原文(貴僧、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀らしい。
現代語訳(お坊様、言えば何でもできるだろうとは思うのですけれど、この人の病気だけは、お医者の手でも、あの水でも治りませんでした。両足が立たないのでございますから、何を覚えさせても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀一つするのさえ、あのとおり大儀そうで。
原文ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて切のうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす働も、ものをいうことも忘れました。それでもあの、謡が唄えますわ。二ツ三ツ今でも知っておりますよ。さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)
現代語訳物を教えますと、覚えるのにさぞ骨が折れて、つらいことでしょう。体を苦しめるだけだと思って何もさせずにおきますので、だんだん、手を動かすことも、物を言うことも忘れてしまいました。それでも、あの、歌が歌えますわ。二つ三つ、今でも知っていますよ。さあ、お客様に一つお聞かせなさいましな)
原文白痴は婦人を見て、また私が顔をじろじろ見て、人見知をするといった形で首を振った。」
現代語訳若者は女を見て、また私の顔をじろじろ見て、人見知りをするといった様子で、首を振った」
二十二
原文「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げてかの臍を弄びながら唄った。
現代語訳「あれこれと、女が励ますように、なだめすかすようにして勧めると、若者は首を曲げて、例のへそをいじりながら歌った。
原文木曽の御嶽山は夏でも寒い、
現代語訳木曽の御嶽山は夏でも寒い、
原文袷遣りたや足袋添えて。
現代語訳袷(裏地のある着物)をやりたい、足袋を添えて。
原文(よく知っておりましょう、)と婦人は聞き澄して莞爾する。
現代語訳(よく知っておりましょう)と、女は聞き入って、にっこりした。
原文不思議や、唄った時の白痴の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底この少年の咽喉から出たものではない。まず前の世のこの白痴の身が、冥土から管でそのふくれた腹へ通わして寄越すほどに聞えましたよ。
現代語訳不思議なことに、歌ったときの若者の声は、この話をお聞きのあなたはもとより、私が予想していたのとは、月とすっぽん、雲と泥、天と地ほどの違いだった。節回し、抑揚、息の続くところから、第一、その清らかで涼しげな声というものは、とてもこの若者の喉から出たものではない。まるで前世のこの若者が、あの世から管を通して、そのふくれた腹へ送ってよこしたかのように聞こえたよ。
原文私は畏って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙した。
現代語訳私はかしこまって聞き終えると、ひざに手をついたきり、どうしても顔を上げて、そこにいる男女を見ることができない。何か胸がきりきりとして、はらはらと涙を落とした。
原文婦人は目早く見つけたそうで、
現代語訳女は目ざとく見つけたらしく、
原文(おや、貴僧、どうかなさいましたか。)
現代語訳(おや、お坊様、どうかなさいましたか)
原文急にものもいわれなんだが漸々、
現代語訳急には物も言えなかったが、ようやく、
原文(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、私も嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問うては下さりますな。)
現代語訳(はい、なあに、変わったことでもございません。私もお嬢様のことは特にお尋ねしませんから、あなたも何もお聞きにならないでください)
原文と仔細は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纏うて、珠履を穿たば、正に驪山に入って、相抱くべき豊肥妖艶の人が、その男に対する取廻しの優しさ、隔なさ、深切さに、人事ながら嬉しくて、思わず涙が流れたのじゃ。
現代語訳と、わけは語らずに、ただ思いを込めてそう言った。実は、前からの様子でも分かるように、金のかんざし、玉のかんざしを挿し、蝶の羽のような衣をまとい、宝玉の靴をはけば、まさに驪山の宮殿に入って楊貴妃のように寵愛されるべき、ふくよかで妖艶な人が、その男に対して示す世話のやさしさ、分け隔てのなさ、親切さに、他人事ながらうれしくて、思わず涙が流れたのだ。
原文すると人の腹の中を読みかねるような婦人ではない、たちまち様子を悟ったかして、
現代語訳すると、人の腹の中を読みかねるような女ではない。たちまち様子を悟ったとみえて、
原文(貴僧はほんとうにお優しい。)といって、得も謂われぬ色を目に湛えて、じっと見た。私も首を低れた、むこうでも差俯向く。
現代語訳(お坊様は、本当におやさしい)と言って、何とも言えない色を目にたたえて、じっと私を見た。私もうなだれた。向こうでもうつむいた。
原文いや、行燈がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴のせいじゃて。
現代語訳いや、行灯がまた薄暗くなってきたようだが、おそらくこれは、あの若者のせいだよ。
原文その時よ。
現代語訳そのときだ。
原文座が白けて、しばらく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫、退屈をしたとみえて、顔の前の行燈を吸い込むような大欠伸をしたから。
現代語訳座がしらけて、しばらく言葉が途絶えている間、することがないので、歌い手の太夫殿は退屈したとみえて、顔の前の行灯を吸い込むような大あくびをしたから。
原文身動きをしてな、
現代語訳身動きをしてな、
原文(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱うわい。
現代語訳(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ)と、よたよたと体を持て余している。
原文(眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが坐り直ってふと気がついたように四辺を眗した。戸外はあたかも真昼のよう、月の光は開け拡げた家の内へはらはらとさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かった。
現代語訳(眠くなったのかい。もうおやすみか)と言ったが、女は座り直して、ふと気がついたようにあたりを見回した。外はまるで真昼のようで、月の光は開け放した家の中へはらはらと差し込み、紫陽花の色も鮮やかに青かった。
原文(貴僧ももうお休みなさいますか。)
現代語訳(お坊様も、もうおやすみになりますか)
原文(はい、ご厄介にあいなりまする。)
現代語訳(はい、ご厄介になります)
原文(まあ、いま宿を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜うございましょう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧はここへお広くお寛ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項へ崩れた。
現代語訳(まあ、今この人を寝かせますから、ごゆっくりなさいまし。外には近うございますが、夏は広い方がかえってよろしゅうございましょう。私どもは奥の部屋で寝ますから、お坊様はここで広々とおくつろぎになるとよろしゅうございます。ちょっと待って)と言いかけて、すっと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた。あまりに身のこなしが活発だったので、その拍子に、黒髪が先を巻いたまま、うなじに崩れ落ちた。
原文鬢をおさえて戸につかまって、戸外を透したが、独言をした。
現代語訳女は鬢を押さえて戸につかまり、外を透かして見ていたが、ひとりごとを言った。
原文(おやおやさっきの騒ぎで櫛を落したそうな。)
現代語訳(おやおや、さっきの騒ぎで櫛を落としたらしい)
原文いかさま馬の腹を潜った時じゃ。」
現代語訳なるほど、馬の腹をくぐったときだ」
二十三
原文この折から下の廊下に跫音がして、静に大跨に歩行いたのが、寂としているからよく。
現代語訳このとき、下の廊下に足音がして、静かに大またで歩いていくのが、ひっそりとしているのでよく聞こえた。
原文やがて小用を達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ柄杓の響。
現代語訳やがて用を足したらしく、雨戸をばたりと開ける音が聞こえ、手水鉢にひしゃくの音が響いた。
原文「おお、積った、積った。」と呟いたのは、旅籠屋の亭主の声である。
現代語訳「おお、積もった、積もった」とつぶやいたのは、宿の主人の声である。
原文「ほほう、この若狭の商人はどこかへ泊ったと見える、何か愉快い夢でも見ているかな。」
現代語訳「ほほう、この若狭の商人はどこかよそへ泊まったとみえる。何か楽しい夢でも見ているのかな」
原文「どうぞその後を、それから。」と聞く身には他事をいううちが牴牾しく、膠もなく続きを促した。
現代語訳「どうか、その後を。それから」と、聞いている私には、ほかのことを言っている間ももどかしく、そっけなく続きを促した。
原文「さて、夜も更けました、」といって旅僧はまた語出した。
現代語訳「さて、夜も更けました」と言って、旅の僧はまた語り出した。
原文「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥れておっても申上げたような深山の孤家で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内私を寝かさなかった事もあるし、目は冴えて、まじまじしていたが、さすがに、疲が酷いから、心は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。
現代語訳「たいていご推察もなさるだろうが、どんなに疲れていても、申し上げたような深い山の一軒家で、眠れるものではない。それに少し気になって、初めのうちは私を寝かせなかったこともあり、目は冴えて、まんじりともせずにいたが、さすがに疲れがひどいので、心は少しぼんやりしてきた。なにしろ、夜が明けるのが待ち遠しくてならない。
原文そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経ったものをと、怪しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
現代語訳そこで初めのうちは、我知らず、鐘の音が聞こえるのを頼りにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて、時刻はたっぷりたったのにと不思議に思っていたが、やがて気がついて、こういう所では山寺どころではないと思うと、急に心細くなった。
原文その時は早や、夜がものに譬えると谷の底じゃ、白痴がだらしのない寐息も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢がしてきた。
現代語訳そのときはもう、夜は、物にたとえれば谷の底だ。若者のだらしない寝息も聞こえなくなると、たちまち戸の外に何かの気配がしてきた。
原文獣の跫音のようで、さまで遠くの方から歩行いて来たのではないよう、猿も、蟇も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
現代語訳獣の足音のようで、それほど遠くから歩いてきたのではないようだ。猿も、がまがえるもいる所だと、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
原文しばらくすると今そやつが正面の戸に近いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。
現代語訳しばらくすると、今そいつが正面の戸に近づいたなと思ったのが、羊の鳴き声になる。
原文私はその方を枕にしていたのじゃから、つまり枕頭の戸外じゃな。しばらくすると、右手のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
現代語訳私はそちらの方を枕にしていたのだから、つまり枕もとの戸の外だな。しばらくすると、右手の、あの紫陽花が咲いていた花の下あたりで、鳥の羽ばたく音。
原文むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取られるのが胸を圧すほどに近いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方からひたひたと小刻に駈けて来るのは、二本足に草鞋を穿いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦ぐ気色だった。
現代語訳むささびか知らないが、きっ、きっと言って屋根の棟へ。やがて、およそ小山ほどもあろうかと思われるものが、胸を圧迫するほどに近づいてきて、牛が鳴いた。遠くの方からひたひたと小刻みに駆けてくるのは、二本足に草鞋をはいた獣かと思われた。いや、さまざまなものが、むらむらと家のまわりを取り巻いたようで、二十、三十のものの鼻息、羽音、中にはささやいているものもある。まるで、そう、あの畜生道の地獄絵を月夜に映したような怪しい姿が、板戸一枚向こうに。魑魅魍魎(さまざまな化け物)というのだろうか、ざわざわと木の葉がそよぐような様子だった。
原文息を凝すと、納戸で、
現代語訳息を凝らしていると、奥の部屋で、
原文(うむ、)といって長く呼吸を引いて一声、魘れたのは婦人じゃ。
現代語訳(うむ)と言って、長く息を引いて一声、うなされたのは女だ。
原文(今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。
現代語訳(今夜はお客様があるよ)と叫んだ。
原文(お客様があるじゃないか。)
現代語訳(お客様があるじゃないか)
原文としばらく経って二度目のははっきりと清しい声。
現代語訳と、しばらくたってからの二度目は、はっきりと涼しげな声。
原文極めて低声で、
現代語訳ごく低い声で、
原文(お客様があるよ。)といって寝返る音がした、更に寝返る音がした。
現代語訳(お客様があるよ)と言って寝返る音がした。さらに寝返る音がした。
原文戸の外のものの気勢は動揺を造るがごとく、ぐらぐらと家が揺いた。
現代語訳戸の外のものの気配は、揺さぶりをかけるように、ぐらぐらと家が揺れた。
原文私は陀羅尼を呪した。
現代語訳私は陀羅尼(呪文)を唱えた。
原文若不順我呪 悩乱説法者
現代語訳(書き下し)若し我が呪に順わずして 説法者を悩乱せば (意味)もし私の呪文に従わず、仏法を説く者を悩ませ乱すならば、
原文頭破作七分 如阿梨樹枝
現代語訳(書き下し)頭破れて七分と作ること 阿梨樹の枝の如くならん (意味)その頭は、阿梨樹の枝のように七つに裂けるだろう。
原文如殺父母罪 亦如厭油殃
現代語訳(書き下し)父母を殺す罪の如く 亦た油を圧す殃の如く (意味)それは父母を殺す罪のように、また(虫ごと)油をしぼる罪の報いのように重く、
原文斗秤欺誑人 調達破僧罪
現代語訳(書き下し)斗秤もて人を欺誑し 調達が破僧の罪の如く (意味)ますやはかりで人をだます罪や、提婆達多が教団を分裂させた罪のように重い。
原文犯此法師者 当獲如是殃
現代語訳(書き下し)此の法師を犯す者は 当に是の如き殃を獲べし (意味)この法師を害する者は、必ずこのような災いを受けるだろう。
原文と一心不乱、さっと木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、たちまち静り返った、夫婦が閨もひッそりした。」
現代語訳と一心不乱に唱えると、さっと木の葉を巻き上げて風が南へ吹いたが、たちまち静まり返った。夫婦の寝室もひっそりとした」
二十四
原文「翌日また正午頃、里近く、滝のある処で、昨日馬を売りに行った親仁の帰りに逢うた。
現代語訳「翌日、また正午ごろ、人里近くの滝のあるところで、昨日馬を売りに行った親父の帰りに出会った。
原文ちょうど私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送ろうと思っていたところで。
現代語訳ちょうど私が、修行に出るのをやめて一軒家に引き返し、あの女と一緒に生涯を送ろうと思っていたところだった。
原文実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかったが、道が難渋なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚もつまらない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
現代語訳実を言うと、ここへ来る途中でも、そのことばかり考えていた。蛇の橋も幸いになく、蛭の林もなかったが、道が難儀なのにつけても、汗が流れて気持ちが悪いのにつけても、今さら行脚もつまらない。紫の袈裟をかけて、立派なお寺に住んだところで、何ほどのこともあるまい。生き仏様だといって、わあわあ拝まれれば、人いきれで胸が悪くなるばかりではないか。
原文ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜も白痴を寐かしつけると、婦人がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流に一所に私の傍においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅したようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳が出来るというのは、しきりに婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!
現代語訳ちょっと話すのもどうかと思うので、さっきは詳しく言わなかったが、昨夜も若者を寝かしつけると、女がまた囲炉裏のところへやって来て、世の中へ苦労をしに出ていくよりも、夏は涼しく冬は暖かい、この流れのそばで、一緒に私のそばにいらっしゃいと言ってくれた。いやいや、それだけなら、自分に魔物が取りついたようなものだが、ここで自分で自分に言い訳ができるのは、しきりにあの女が哀れでならないということだ。深い山の一軒家で、言葉も通じない若者の相手をして、日がたつにつれて、物を言うことさえ忘れてしまうような気がするというのは、なんということか!
原文殊に今朝も東雲に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しや、かような処にこうやって老朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄れながら、なお深切に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家の見えなくなった辺で、指しをしてくれた。
現代語訳ことに今朝も、明け方に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しい、こんなところでこうして年老いて朽ちていく身では、二度とお目にかかれないでしょう。たとえ小川の水ででも、どこかで白桃の花が流れていくのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったのだと思ってください、と言って、しょんぼりしながらも、なお親切に、道はただこの谷川の流れに沿って行きさえすれば、どんなに遠くても里に出られる、目の下の近くで水が躍って滝になって落ちていくのを見たら、人家が近づいたと安心するように、と気をつけて、一軒家が見えなくなったあたりで、指さして教えてくれた。
原文その手と手を取交すには及ばずとも、傍につき添って、朝夕の話対手、蕈の汁でご膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾って、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人が裸体になって私が背中へ呼吸が通って、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!
現代語訳その手と手を取り合うまでもなく、そばに付き添って、朝晩の話し相手になり、きのこの汁でご飯を食べたり、私が薪をたいて、女が鍋をかけて、私が木の実を拾って、女が皮をむいて、それから障子の内と外とで話をしたり笑ったり、それから谷川で二人して、あのときのように女が裸になって、私の背中に息がかかり、えも言われぬ香りの花びらに暖かく包まれたら、そのまま命が消えてもいい!
原文滝の水を見るにつけても耐え難いのはその事であった、いや、冷汗が流れますて。
現代語訳滝の水を見るにつけても、耐えがたいのはそのことだった。いや、冷や汗が流れますよ。
原文その上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞われるのが関の山と、里へ入るのも厭になったから、石の上へ膝を懸けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、後に聞くと女夫滝と言うそうで。
現代語訳そのうえ、もう気がゆるみ、体の筋もたるんで、もう歩くのに飽きてしまい、喜ばなければならない人家が近づいたのも、せいぜい口の臭いお婆さんに渋茶をふるまわれるのが関の山だと、里に入るのも嫌になったので、石の上に腰を下ろした。ちょうど目の下にある滝だった。これがさ、後で聞くと「夫婦滝」と言うそうで。
原文真中にまず鰐鮫が口をあいたような先のとがった黒い大巌が突出ていると、上から流れて来るさっと瀬の早い谷川が、これに当って両に岐れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧に白布を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅を裂いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の簾を百千に砕いたよう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縋れつ。」
現代語訳真ん中に、まずわにざめが口を開けたような、先のとがった黒い大岩が突き出ていて、上から流れてくる流れの速い谷川が、これに当たって左右に分かれ、およそ四丈(十二メートルほど)ばかりの滝となってどっと落ち、また暗い青緑の水に白い布を織るようにして、矢を射るように里へ流れ出ていく。その岩にせき止められた方の一方は六尺(一・八メートル)ほどの幅で、川の一筋を裂いて、糸も乱れず流れ落ちる。もう一方は幅が狭く三尺くらいで、この下にはいろいろな岩が並んでいるとみえて、ちらちら、ちらちらと、玉のすだれを何百何千にも砕いたように、例のわにざめの岩に、すれ合い、すがりつくようにして落ちていく」
二十五
原文「ただ一筋でも巌を越して男滝に縋りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通わぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるという風情、この方は姿も窶れ容も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝じゃ。
現代語訳「ただ一筋でも岩を越えて、男滝にすがりつこうとするような形だ。それでも間を隔てられて、最後まで一滴のしずくも通わないので、もまれ、揺られて、さんざん苦労をなめているという風情で、こちらは姿もやつれ、形も細って、流れる音さえ違って聞こえ、泣いているのか、恨んでいるのかとも思われる。哀れにもやさしい女滝だ。
原文男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様じゃ、これが二つ件の巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳る。ましてこの水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人の姿が歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱るる水とともにその膚が粉に砕けて、花片が散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。私は耐らず真逆に滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。気がつくと男滝の方はどうどうと地響打たせて。山彦を呼んで轟いて流れている。ああその力をもってなぜ救わぬ、儘よ!
現代語訳男滝の方はそれとは裏腹で、石を砕き、大地を貫く勢いで、堂々とした様子だ。これが二つ、例の岩に当たって左右に分かれ、二筋になって落ちるのが身にしみて、女滝の心を砕く姿は、男のひざに取りすがって美しい女が泣いて身を震わせているようで、岸にいてさえ体がわななき、肉が躍る。まして、この流れの上手は、昨日一軒家の女と水を浴びたところだと思うと、気のせいか、その女滝の中に、絵のようなあの女の姿がありありと浮き出てくる。巻き込まれて沈んだかと思うとまた浮かび、千筋に乱れる水とともにその肌が粉々に砕けて、花びらが散り込むようだ。あっと思うと、さらに元の顔も、胸も、乳房も、手足も完全な姿となって、浮いたり沈んだり、ぱっと刻まれ、あっと見る間にまた現れる。私はたまらず、真っ逆さまに滝の中へ飛び込んで、女滝をしっかりと抱いたとまで思った。気がつくと、男滝の方はどうどうと地響きを立て、山びこを呼んで轟いて流れている。ああ、その力で、なぜ救わないのか。ええ、ままよ!
原文滝に身を投げて死のうより、旧の孤家へ引返せ。汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇するわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾するのに枕を並べて差支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切って戻ろうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、
現代語訳滝に身を投げて死ぬくらいなら、元の一軒家へ引き返せ。汚らわしい欲があるからこそ、こうなったうえでためらうのだ。あの顔を見て、あの声を聞けるなら、あの夫婦が一緒に寝る枕もとに枕を並べても構わない。それでも、汗まみれになって修行をして、坊主のまま果てるよりは、よほどましだと、思いきって戻ろうとして、石から離れて身を起こすと、後ろから一つ背中をたたいて、
原文(やあ、ご坊様。)といわれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。
現代語訳(やあ、お坊様)と言われたので、時が時、心が心で、後ろめたいのでびっくりして見ると、閻魔大王の使いではない、あの親父だった。
原文馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌剌として尾の動きそうな、鮮しい、その丈三尺ばかりなのを、顋に藁を通して、ぶらりと提げていた。何んにも言わず急にものもいわれないで瞻ると、親仁はじっと顔を見たよ。そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、薄気味の悪い北叟笑をして、
現代語訳馬は売ったのか、身軽になって、小さな包みを肩にかけ、手には一匹の鯉を、うろこは金色で、生き生きと尾が動きそうな、新しい、長さ三尺ほどもあるのを、えらにわらを通して、ぶらりと下げていた。私が何も言わず、急には物も言えずに見つめると、親父はじっと私の顔を見たよ。そして、にやにやと、それもひと通りの笑い方ではない、薄気味の悪いほくそえみを浮かべて、
原文(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑で、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かっしゃりや、昨夜の泊からここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。
現代語訳(何をしていなさる。ご修行の身が、このくらいの暑さで岸に休んでいなさる場合ではあるまい。一生懸命に歩きなされば、昨夜の宿からここまでは、たった五里。もう里へ行って、お地蔵様を拝みなさる時刻だ。
原文何じゃの、己が嬢様に念が懸って煩悩が起きたのじゃの。うんにゃ、秘さっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。
現代語訳何じゃな、おらのお嬢様に心を奪われて、煩悩が起きたんじゃな。いやいや、隠しなさるな。おらの目は赤くても、白か黒かはちゃんと見える。
原文地体並のものならば、嬢様の手が触ってあの水を振舞われて、今まで人間でいようはずがない。
現代語訳そもそも並の者なら、お嬢様の手が触れて、あの水をふるまわれたら、今まで人間でいられるはずがない。
原文牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消たくらい、お前様それでも感心に志が堅固じゃから助かったようなものよ。
現代語訳牛か馬か、猿か、がまがえるか、こうもりか、何にせよ、飛ぶか跳ねるかするものにならなければならない。谷川から上がってきなさったとき、手足も顔も人間のままだったから、おらはたまげたくらいだ。お前様、それでも感心に志が固かったから、助かったようなものよ。
原文何と、おらが曳いて行った馬を見さしったろう。それで、孤家へ来さっしゃる山路で富山の反魂丹売に逢わしったというではないか、それみさっせい、あの助平野郎、とうに馬になって、それ馬市で銭になって、お銭が、そうらこの鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」
現代語訳どうだ、おらが引いていった馬を見なさったろう。それで、一軒家に来なさる山道で、富山の反魂丹売りに会いなさったというではないか。それ見なされ、あの助平野郎は、とっくに馬になって、ほれ、馬市で銭になって、その銭が、ほうら、この鯉に化けた。大好物で、晩ご飯のおかずになさる。お嬢様を、いったい何だと思っていなさるのじゃ)」
原文私は思わず遮った。
現代語訳私は思わずさえぎった。
原文「お上人?」
現代語訳「お上人?」
二十六
原文上人は頷きながら呟いて、
現代語訳お坊さんはうなずきながら、つぶやくように、
原文「いや、まず聞かっしゃい、かの孤家の婦人というは、旧な、これも私には何かの縁があった、あの恐しい魔処へ入ろうという岐道の水が溢れた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。
現代語訳「いや、まずお聞きなさい。あの一軒家の女というのは、もとはな――これも私には何かの縁があった――あの恐ろしい魔所へ入ろうという分かれ道の、水があふれた往来で、百姓が教えて、あそこは以前医者の家だったと言ったが、その家のお嬢様だ。
原文何でも飛騨一円当時変ったことも珍らしいこともなかったが、ただ取り出でていう不思議はこの医者の娘で、生まれると玉のよう。
現代語訳何でも、飛騨一円には、当時、変わったことも珍しいこともなかったが、ただ取り立てて言うべき不思議は、この医者の娘で、生まれたときから玉のように美しかった。
原文母親殿は頬板のふくれた、眦の下った、鼻の低い、俗にさし乳というあの毒々しい左右の胸の房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。
現代語訳母親は、頬のふくれた、目じりの下がった、鼻の低い人で、俗にさし乳というあのどぎつい左右の乳房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろう、と言われた。
原文昔から物語の本にもある、屋の棟へ白羽の征矢が立つか、さもなければ狩倉の時貴人のお目に留って御殿に召出されるのは、あんなのじゃと噂が高かった。
現代語訳昔の物語の本にもあるように、家の棟に白羽の矢が立つか、さもなければ狩りのときに身分の高い方のお目に留まって御殿に召し出されるのは、ああいう娘だと評判が高かった。
原文父親の医者というのは、頬骨のとがった髯の生えた、見得坊で傲慢、その癖でもじゃ、もちろん田舎には刈入の時よく稲の穂が目に入ると、それから煩う、脂目、赤目、流行目が多いから、先生眼病の方は少し遣ったが、内科と来てはからッぺた。外科なんと来た日にゃあ、鬢附へ水を垂らしてひやりと疵につけるくらいなところ。
現代語訳父親の医者というのは、頬骨のとがった、ひげの生えた、見栄っ張りで傲慢な男で、そのくせ、もちろん田舎では刈り入れのときによく稲の穂が目に入って、それから患う、目やに目、赤目、はやり目が多いので、先生は眼病の方は少しはやったが、内科ときたらからっきしだめ。外科ときたら、髪油に水を垂らして、ひやりと傷口につけるくらいのところだ。
原文鰯の天窓も信心から、それでも命数の尽きぬ輩は本復するから、外に竹庵養仙木斎の居ない土地、相応に繁盛した。
現代語訳いわしの頭も信心から、それでも寿命の尽きない者は治るので、ほかに医者のいない土地では、それなりに繁盛した。
原文殊に娘が十六七、女盛となって来た時分には、薬師様が人助けに先生様の内へ生れてござったというて、信心渇仰の善男善女? 病男病女が我も我もと詰め懸ける。
現代語訳ことに娘が十六、七の女盛りになったころには、薬師如来が人助けのために先生のお宅に生まれていらっしゃったのだと言って、信心深い善男善女――いや、病気の男女が、我も我もと押しかけた。
原文それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、馴染の病人には毎日顔を合せるところから愛想の一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔かな掌が障ると第一番に次作兄いという若いのの(りょうまちす)が全快、お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの差込の留まったのがある、初手は若い男ばかりに利いたが、だんだん老人にも及ぼして、後には婦人の病人もこれで復る、復らぬまでも苦痛が薄らぐ、根太の膿を切って出すさえ、錆びた小刀で引裂く医者殿が腕前じゃ、病人は七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、我慢が出来るといったようなわけであったそうな。
現代語訳というのも、始まりはあのお嬢様が、ほら、なじみの病人には毎日顔を合わせることから、愛想の一つも、あなた、お手が痛みますか、どんなぐあいでございますか、と言って、手の先に柔らかな手のひらが触れると、まず第一番に、次作兄いという若い男のリウマチが全快した。お苦しそうに、と言って腹をさすってやると、水あたりの差し込みが治まった者もいる。初めは若い男にばかり効いたが、だんだん老人にも及び、後には女の病人もこれで治る。治らないまでも苦痛が和らぐ。おできのうみを切って出すのにさえ、さびた小刀で引き裂く医者殿の腕前だ。病人は七転八倒して悲鳴を上げるのだが、娘が来て、背中にぴったりと胸を当てて肩を押さえていると、我慢ができる、といったわけだったそうだ。
原文ひとしきりあの藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て恐しい大きな巣をかけた。
現代語訳ひとしきり、あの藪の前にある枇杷の古木に、くまばちが来て、恐ろしく大きな巣を作った。
原文すると医者の内弟子で薬局、拭掃除もすれば総菜畠の芋も掘る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯の熊蔵という、その頃二十四五歳、稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、内が吝嗇じゃから見附かると叱られる、これを股引や袴と一所に戸棚の上に載せておいて、隙さえあればちびりちびり飲んでた男が、庭掃除をするといって、件の蜂の巣を見つけたっけ。
現代語訳すると、医者の住み込みの弟子で、薬の調合もすれば、ふき掃除もし、おかず畑の芋も掘り、近いところへは人力車も引いた、下男を兼ねた熊蔵という、そのころ二十四、五歳の男がいた。薬の希塩酸にシロップを混ぜたものを瓶に盗み、家がけちなので見つかると叱られるから、これを股引や袴と一緒に戸棚の上に載せておいて、暇さえあればちびりちびり飲んでいた男だが、庭掃除をすると言って、例のはちの巣を見つけたのだ。
原文縁側へやって来て、お嬢様面白いことをしてお目に懸けましょう、無躾でござりますが、私のこの手を握って下さりますと、あの蜂の中へ突込んで、蜂を掴んで見せましょう。お手が障った所だけは螫しましても痛みませぬ、竹箒で引払いては八方へ散らばって体中に集られてはそれは凌げませぬ即死でございますがと、微笑んで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄じい虫の唸、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚を振うのがある、中には掴んだ指の股へ這出しているのがあった。
現代語訳熊蔵は縁側へやって来て、お嬢様、面白いことをしてお目にかけましょう、ぶしつけでございますが、私のこの手を握ってくださいますと、あのはちの中に突っ込んで、はちをつかんで見せましょう、お手が触れたところだけは、刺されても痛みません、竹ぼうきで払ったら八方に散らばって体じゅうにたかられて、それはしのげません、即死でございますが、と、ほほえんで遠慮する手を無理に握ってもらい、つかつかと行くと、すさまじい虫のうなり声。やがて引き返してきた左手には、くまばちが七つ八つ、羽ばたきをしているもの、足を振るっているもの、中には、つかんだ指の股にはい出しているものもあった。
原文さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のように評判が八方へ。
現代語訳さあ、あの神様の手が触れれば、鉄砲の弾でも通るまいと、蜘蛛の巣のように評判が八方に広がった。
原文その頃からいつとなく感得したものとみえて、仔細あって、あの白痴に身を任せて山に籠ってからは神変不思議、年を経るに従うて神通自在じゃ。はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果は間を隔てていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという呼吸で変ずるわ。
現代語訳そのころから、いつとはなしに不思議な力を身につけたとみえて、わけあって、あの若者に身を任せて山にこもってからは、人知を超えた不思議な力が、年を経るにつれて自由自在になった。初めは体を押しつけていたのが、足だけになり、手先だけになり、果ては離れていても、道に迷った旅人は、お嬢様の思うままに、はっという息一つで姿が変わってしまうのだ。
原文と親仁がその時物語って、ご坊は、孤家の周囲で、猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう、兎も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされたる輩!
現代語訳と親父はそのとき語って、お坊様は、一軒家のまわりで猿を見たろう、がまがえるを見たろう、こうもりを見ただろう、兎も蛇も、みなお嬢様に谷川の水を浴びせられて、獣にされた者たちだ!
原文あわれあの時あの婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎に魘われたのも、思い出して、私はひしひしと胸に当った。
現代語訳ああ、あのとき、あの女が、がまがえるに絡まれたのも、猿に抱きつかれたのも、こうもりに吸いつかれたのも、夜中に魑魅魍魎にうなされたのも、思い出して、私はひしひしと胸にこたえた。
原文なお親仁のいうよう。
現代語訳親父はなおも言った。
原文今の白痴も、件の評判の高かった頃、医者の内へ来た病人、その頃はまだ子供、朴訥な父親が附添い、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。脚に難渋な腫物があった、その療治を頼んだので。
現代語訳今のあの若者も、例の評判が高かったころに医者の家に来た病人で、そのころはまだ子どもだった。素朴な父親が付き添い、髪の長い兄さんが背負って、山から出てきた。足にやっかいなはれものがあって、その治療を頼んだのだ。
原文もとより一室を借受けて、逗留をしておったが、かほどの悩は大事じゃ、血も大分に出さねばならぬ、殊に子供、手を下すには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ鶏卵を飲まして、気休めに膏薬を貼っておく。
現代語訳もとより一部屋を借りて逗留していたが、これほどの病は大ごとだ。血もだいぶ出さなければならない。ことに子どもだから、手を下すには体に精をつけてからと、まず一日に三つずつ鶏の卵を飲ませて、気休めに膏薬をはっておいた。
原文その膏薬を剥がすにも親や兄、また傍のものが手を懸けると、堅くなって硬ばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば黙って耐えた。
現代語訳その膏薬をはがすにも、親や兄、またそばの者が手をかけると、固くこわばったのが、めりめりと肉にくっついて取れ、ひいひいと泣くのだが、娘が手をかけてやると、黙って耐えた。
原文一体は医者殿、手のつけようがなくって身の衰をいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日経つと、兄を残して、克明な父親は股引の膝でずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋を穿いてまた地に手をついて、次男坊の生命の扶かりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。
現代語訳そもそも医者殿は、手のつけようがなくて、体が弱っていることを口実に一日延ばしにしていたのだが、三日たつと、兄を残して、律儀な父親は股引のひざでずって、後ずさりしながら玄関から土間へ下り、草鞋をはいて、また地面に手をついて、次男坊の命が助かりますように、ねえ、ねえ、と言って山へ帰った。
原文それでもなかなか捗取らず、七日も経ったので、後に残って附添っていた兄者人が、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがえのない、稲が腐っては、餓死でござりまする、総領の私は、一番の働手、こうしてはおられませぬから、と辞をいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。
現代語訳それでもなかなか治療ははかどらず、七日もたったので、後に残って付き添っていた兄さんが、ちょうど刈り入れで、この時季は手が八本も欲しいほど忙しい、天気模様も雨になりそうで、長雨にでもなれば、山の畑のかけがえのない稲が腐って、飢え死にでございます、長男の私は一番の働き手なので、こうしてはいられません、とあいさつして、これ、泣くんじゃないぞ、としんみり子どもに言い聞かせて、病人を置いて帰っていった。
原文後には子供一人、その時が、戸長様の帳面前年紀六ツ、親六十で児が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生れで聞分があるから、三ツずつあいかわらず鶏卵を吸わせられる汁も、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそを掻いても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。
現代語訳後には子ども一人。そのとき、村長さんの帳面の上では年は六つ――親が六十で子が二十なら兵役が免除されるのを何と間違えたか、届けが五年遅れていて、本当は十一歳。それでも奥山で育ったので、村の言葉もろくに知らなかったが、賢い生まれつきで聞き分けがあるので、相変わらず三つずつ飲まされる卵の汁も、今に治療のときに残らず血になって出ることだろうと推し量って、べそをかいても、兄さんが泣くなと言ったからと、こらえていた、その心の内。
原文娘の情で内と一所に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切をくわえて隅の方へ引込むいじらしさ。
現代語訳娘の情けで、家の者と一緒に膳を並べて食事をさせると、たくあんの切れ端をくわえて隅の方へ引っ込む、そのいじらしさ。
原文いよいよ明日が手術という夜は、皆寐静まってから、しくしく蚊のように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけてあまり不便さに抱いて寝てやった。
現代語訳いよいよ明日が手術という夜は、皆が寝静まってから、しくしくと蚊のように泣いているのを、手洗いに起きた娘が見つけて、あまりにかわいそうで、抱いて寝てやった。
原文さて治療となると例のごとく娘が背後から抱いていたから、脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、危くなった。
現代語訳さて治療となると、いつものように娘が後ろから抱いていたので、脂汗を流しながら刃物が入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切り違えたのか、それから流れ出した血が止まらず、見る見るうちに顔色が変わって、危なくなった。
原文医者も蒼くなって、騒いだが、神の扶けかようよう生命は取留まり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより不具。
現代語訳医者も真っ青になって騒いだが、神の助けか、ようやく命は取り留め、三日ほどで血も止まったが、とうとう腰が立たなくなり、もとより体が不自由になってしまった。
原文これが引摺って、足を見ながら情なそうな顔をする。蟋蟀が𢪸がれた脚を口に銜えて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。
現代語訳この子が足を引きずって、自分の足を見ながら情けなさそうな顔をする。こおろぎが、もがれた足を口にくわえて泣いているのを見るようで、目も当てられたものではない。
原文しまいには泣出すと、外聞もあり、少焦で、医者は恐しい顔をして睨みつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋るさまに、年来随分と人を手にかけた医者も我を折って腕組をして、はッという溜息。
現代語訳しまいに泣き出すと、外聞もあるし、医者は少しいら立って、恐ろしい顔をしてにらみつける。すると子どもは、哀れがって抱き上げる娘の胸に顔を隠してすがりつく。その様子に、長年ずいぶん人を手にかけてきた医者も我を折って、腕組みをして、はあっとため息をついた。
原文やがて父親が迎にござった、因果と断念めて、別に不足はいわなんだが、何分小児が娘の手を放れようといわぬので、医者も幸、言訳かたがた、親兄の心をなだめるため、そこで娘に小児を家まで送らせることにした。
現代語訳やがて父親が迎えに来た。因果なことだとあきらめて、特に不平は言わなかったが、何分にも子どもが娘の手を放そうとしないので、医者も好都合とばかり、言い訳かたがた、親や兄の心をなだめるために、娘に子どもを家まで送らせることにした。
原文送って来たのが孤家で。
現代語訳送ってきたのが、あの一軒家だ。
原文その時分はまだ一個の荘、家も小二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降出した。滝を覆すようで小歇もなく家に居ながら皆簑笠で凌いだくらい、茅葺の繕いをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣同士、おうおうと声をかけ合ってわずかにまだ人種の世に尽きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここが峠というところでたちまち泥海。
現代語訳そのころはまだ一つの集落で、家も二十軒近くあったのだが、娘が来て一日、二日、つい情にほだされて逗留した五日目から、大雨が降り出した。滝をひっくり返したようで、小やみもなく、家にいながら皆みのと笠でしのいだくらいだ。かやぶき屋根の修繕はさておいて、表の戸も開けられず、家から家へ、隣同士、おうおうと声をかけ合って、わずかにまだ人間がこの世から絶えていないことを知るばかり。八日間を八百年にも感じながら雨の中にこもっていると、九日目の真夜中から大風が吹き出し、その風の勢いが頂点に達したところで、たちまち泥の海になった。
原文この洪水で生残ったのは、不思議にも娘と小児とそれにその時村から供をしたこの親仁ばかり。
現代語訳この洪水で生き残ったのは、不思議にも、娘と子どもと、それにそのとき村からお供をしてきた、この親父だけだった。
原文おなじ水で医者の内も死絶えた、さればかような美女が片田舎に生れたのも国が世がわり、代がわりの前兆であろうと、土地のものは言い伝えた。
現代語訳同じ洪水で医者の家も死に絶えた。だから、あのような美女が片田舎に生まれたのも、国や世の中が移り変わる前触れだったのだろうと、土地の者は言い伝えた。
原文嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児と一所に山に留まったのはご坊が見らるる通り、またあの白痴につきそって行届いた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかわりはない。
現代語訳お嬢様は帰る家もなく、この世にたった一人になって、子どもと一緒に山にとどまったのは、お坊様が見られるとおり。また、あの若者に付き添って、行き届いた世話をしているのも、見られるとおり。洪水のときから十三年、今に至るまで一日も変わりはない。
原文といい果てて親仁はまた気味の悪い北叟笑。
現代語訳と言い終えて、親父はまた気味の悪いほくそえみを浮かべた。
原文(こう身の上を話したら、嬢様を不便がって、薪を折ったり水を汲む手助けでもしてやりたいと、情が懸ろう。本来の好心、いい加減な慈悲じゃとか、情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はて措かっしゃい。あの白痴殿の女房になって世の中へは目もやらぬ換にゃあ、嬢様は如意自在、男はより取って、飽けば、息をかけて獣にするわ、殊にその洪水以来、山を穿ったこの流は天道様がお授けの、男を誘う怪しの水、生命を取られぬものはないのじゃ。
現代語訳(こう身の上を話したら、お嬢様をかわいそうに思って、薪を割ったり水をくんだりする手助けでもしてやりたいと、情けがわくだろう。本心は好き心なのに、いい加減に慈悲だとか情けだとかいう名をつけて、いっそ山へ帰りたいのだろう。はて、おやめなされ。あの若者の女房になって世の中には目もくれない代わりに、お嬢様は思いのまま、男はより取り見取りで、飽きれば息を吹きかけて獣にしてしまうのだ。ことにあの洪水以来、山を掘って流れているこの川は、お天道様がお授けになった、男を誘う怪しい水で、命を取られない者はいないのじゃ。
原文天狗道にも三熱の苦悩、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると旧の通り、それこそ水が垂るばかり、招けば活きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落つる、袖を翳せば雨も降るなり、眉を開けば風も吹くぞよ。
現代語訳天狗の世界にも三つの熱の苦しみがあるというが、髪が乱れ、顔色が青ざめ、胸がやせて手足が細くなれば、谷川を浴びると元どおり、それこそ水が滴るほどみずみずしくなる。招けば生きた魚も寄ってくる。にらめば美しい木の実も落ちる。袖をかざせば雨も降り、眉を開けば風も吹くぞ。
原文しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのが好じゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実としたところで、やがて飽かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。
現代語訳しかも生まれつきの色好みで、ことに若いのが好きだから、何かお坊様に言っただろうが、それを本気にしたところで、やがて飽きられると、尾が生え、耳が動き、足が伸びて、たちまち姿が変わってしまうばかりだ。
原文いややがて、この鯉を料理して、大胡坐で飲む時の魔神の姿が見せたいな。
現代語訳いや、やがてこの鯉を料理して、大あぐらをかいて飲むときの、魔神の姿を見せてやりたいな。
原文妄念は起さずに早うここを退かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加な、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ。)とまた一ツ背中を叩いた、親仁は鯉を提げたまま見向きもしないで、山路を上の方。
現代語訳迷いの心は起こさずに、早くここを立ち去りなされ。助けられたのが不思議なくらい、お嬢様の格別のお情けじゃわ。命拾いをしたものだ。お若いの、しっかり修行をなされませ)と、また一つ背中をたたいた。親父は鯉を下げたまま、振り向きもしないで、山道を上の方へ。
原文見送ると小さくなって、一座の大山の背後へかくれたと思うと、油旱の焼けるような空に、その山の巓から、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々として雷の響。
現代語訳見送ると小さくなって、一つの大きな山の後ろに隠れたかと思うと、日照り続きの焼けるような空に、その山の頂から、むくむくと雲が湧き出た。滝の音もかき消されるほど、ごろごろと雷の響き。
原文藻抜けのように立っていた、私が魂は身に戻った、そなたを拝むと斉しく、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌しく一散に駈け下りたが、里に着いた時分に山は驟雨、親仁が婦人に齎らした鯉もこのために活きて孤家に着いたろうと思う大雨であった。」
現代語訳抜け殻のように立っていた私の魂は、体に戻った。そちらの方を拝むやいなや、杖を抱え込み、小さな笠を傾けて、きびすを返すと、慌ただしく一目散に駆け下りたが、里に着いたころには、山はにわか雨になっていた。親父が女にもたらした鯉も、このおかげで生きたまま一軒家に着いただろうと思うほどの大雨だった」
原文高野聖はこのことについて、あえて別に註して教を与えはしなかったが、翌朝袂を分って、雪中山越にかかるのを、名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、あたかも雲に駕して行くように見えたのである。
現代語訳高野聖は、この話について、あえて特に解説して教えを与えることはしなかった。翌朝、別れて、雪の中の山越えにかかるのを名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降る中を、しだいに高く坂道を上っていく聖の姿は、まるで雲に乗って行くように見えたのである。
原文(明治三十三年)
現代語訳(明治三十三年)