原文と現代語訳の対照
『外科室』現代語訳(全文)
著者: 泉鏡花
青空文庫の原文を段落ごとに区切り、隣に現代語訳を並べました。読みにくい言い回しは現代語訳で、言葉の響きは原文で味わえます。場面の段落には、その場面を描いた漫画ページへのリンクがあります。
この現代語訳は、生成AIが原文をもとに作成し、段落ごとに原文と照合したものです。学術的な訳注ではありません。正確な表現や解釈は、原文でお確かめください。
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原文実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。
現代語訳実のところは好奇心からだった。それでも私は、自分が画家であることを都合のよい口実にして、兄弟同然の仲である医学士の高峰に無理を言い、ある日、東京府内のある病院で、彼が執刀することになっていた貴船伯爵夫人の手術を、どうしても私に見せないわけにはいかないようにさせた。
原文その日午前九時過ぐるころ家を出でて病院に腕車を飛ばしつ。直ちに外科室の方に赴くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目よき婦人二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。
現代語訳その日、午前九時過ぎに家を出て、人力車を走らせて病院へ向かった。すぐに外科室の方へ行こうとしたとき、向こうから扉を押し開けてすらすらと出てきた、華族の家の小間使いらしい器量のよい女性二、三人と、廊下の中ほどですれ違った。
原文見れば渠らの間には、被布着たる一個七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷けり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。
現代語訳見ると、彼女たちは被布を着た七、八歳ほどの女の子を囲んでおり、見送るうちに姿が見えなくなった。それだけではない。玄関から外科室へ、外科室から二階の病室へと通じる長い廊下には、フロックコートを着た紳士、制服姿の軍人、あるいは羽織袴姿の人物、そのほか貴婦人や令嬢など、いずれもただならぬ気品のある人たちが、あちらですれ違い、こちらで落ち合い、歩いたり立ち止まったりして、まるで機を織るように行き来していた。私は、さっき門の前で見た何台もの馬車を思い合わせて、ひそかに心の中でうなずいた。彼らのある者は沈痛な様子で、ある者は心配そうに、またある者は慌ただしげに、いずれも穏やかではない顔色をしていた。せわしない小刻みな靴音や草履の音が、ひっそりと寂しい病院の高い天井と、広い扉や窓と、長い廊下の間に異様に響き、いよいよ陰鬱な雰囲気をつくり出していた。
原文予はしばらくして外科室に入りぬ。
現代語訳私はしばらくしてから外科室に入った。
原文ときに予と相目して、脣辺に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子に凭れり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷える身の、あたかも晩餐の筵に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性とてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
現代語訳そのとき私と目を合わせて、口もとにほほえみを浮かべた医学士は、両手を組んで、少しあお向けに椅子にもたれていた。今に始まったことではないが、ほとんどわが国の上流社会全体の喜びや悲しみに関わるような、この大きな責任を負っている身でありながら、まるで晩餐の席に臨んでいるかのように、平然として冷静でいられる者は、おそらく彼のほかにはめったにいないだろう。助手が三人と、立ち会いの医学博士が一人、ほかに赤十字の看護婦が五人いた。看護婦の中には、胸に勲章をつけている者も見受けられたが、さる高貴な方面から特別に遣わされた者もいるのだろうと思われた。ほかに女性はいなかった。何某公爵、何某侯爵、何某伯爵と、いずれも立ち会いの親族である。そして、何とも形容しようのない表情で、悲しげに立っているのが、患者の夫である伯爵だった。
原文室内のこの人々に瞻られ、室外のあのかたがたに憂慮われて、塵をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤細りて手足は綾羅にだも堪えざるべし。脣の色少しく褪せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰みて見られつ。わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。
現代語訳室内のこの人々に見守られ、室外のあの方々に心配されて、ちりの数まで数えられるほど明るく、しかもどことなく恐ろしく、侵しがたいような雰囲気のある外科室。その中央に据えられた手術台の上の伯爵夫人は、清らかな白衣をまとい、亡骸のように横たわっていた。顔の色はどこまでも白く、鼻は高く、あごはほっそりとして、手足は薄い絹の重みにさえ耐えられないほどか細い。唇の色は少しあせていたが、玉のような前歯がかすかに見え、目は固く閉じているものの、眉は気のせいか少しひそめられているように見えた。軽く束ねた髪はふさふさと枕に乱れ、台の上にこぼれていた。
原文そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。
現代語訳そのか弱く、しかも気高く、清らかで、貴く、美しい患者の姿をひと目見たとたん、私はぞっとして寒気を覚えた。
原文医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露われて、椅子に坐りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。
現代語訳医学士はと、ふと見ると、彼は少しも心を動かしていないかのように、無心で平然とした様子がありありと表れており、室内で椅子に座っているのは彼一人だけだった。そのひどく落ち着き払った態度を、頼もしいと言うなら言えばいい。しかし、伯爵夫人のあのような容体を見た私の目には、むしろ憎らしいほどに思われたのである。
原文おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人なり。
現代語訳ちょうどそのとき、しとやかに扉を押し開けて、静かにここへ入ってきたのは、さっき廊下で出会った三人の侍女の中でも、ひときわ目立っていた女性だった。
原文そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、
現代語訳彼女はそっと貴船伯爵の方を向いて、沈んだ声で、
原文「御前、姫様はようようお泣き止みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」
現代語訳「旦那様、お嬢様はようやくお泣きやみになって、別の部屋でおとなしくしていらっしゃいます」
原文伯はものいわで頷けり。
現代語訳伯爵は何も言わずにうなずいた。
原文看護婦はわが医学士の前に進みて、
現代語訳看護婦が私の友人の医学士の前に進み出て、
原文「それでは、あなた」
現代語訳「それでは、先生」
原文「よろしい」
現代語訳「よろしい」
原文と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
現代語訳と、一言答えた医学士の声は、このとき少し震えを帯びて私の耳に届いた。その顔色は、どうしたことか、急に少し変わった。
原文さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。
現代語訳さては、どんな医学士でも、いざという場面に臨んでは、さすがに心配がないわけではないのだろうと、私は同情した。
原文看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
現代語訳看護婦は医学士の意向を受けてから、あの侍女の方を向いて、
原文「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
現代語訳「もう、そういうことですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
原文腰元はその意を得て、手術台に擦り寄りつ、優に膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
現代語訳侍女はその意味を察して、手術台にすり寄り、膝のあたりまで両手を優雅に下げて、しとやかにお辞儀をし、
原文「夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算えあそばしますように」
現代語訳「奥様、ただいまお薬を差し上げます。どうぞそれをお吸いになって、いろはでも数字でも、お数えになってくださいますように」
原文伯爵夫人は答なし。
現代語訳伯爵夫人は答えない。
原文腰元は恐る恐る繰り返して、
現代語訳侍女は恐る恐る繰り返した。
原文「お聞き済みでございましょうか」
現代語訳「お聞き入れいただけますでしょうか」
原文「ああ」とばかり答えたまう。
現代語訳「ああ」とだけ、夫人はお答えになった。
原文念を推して、
現代語訳侍女は念を押して、
原文「それではよろしゅうございますね」
現代語訳「それでは、よろしゅうございますね」
原文「何かい、痲酔剤をかい」
現代語訳「何かい、麻酔薬をかい」
原文「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです」
現代語訳「はい。手術が終わりますまで、ほんのちょっとの間でございますが、お眠りにならないといけないそうです」
原文夫人は黙して考えたるが、
現代語訳夫人は黙って考えていたが、
原文「いや、よそうよ」と謂える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。
現代語訳「いや、よそうよ」と言った声は、はっきりと聞こえた。一同は顔を見合わせた。
原文腰元は、諭すがごとく、
現代語訳侍女は、言い聞かせるように、
原文「それでは夫人、御療治ができません」
現代語訳「それでは奥様、治療ができません」
原文「はあ、できなくってもいいよ」
現代語訳「ええ、できなくてもいいよ」
原文腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、
現代語訳侍女は言葉もなく、振り返って伯爵の顔色をうかがった。伯爵は前に進み出て、
原文「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
現代語訳「お前、そんな無理を言ってはいけない。治療ができなくてもいいということがあるものか。わがままを言ってはならない」
原文侯爵はまたかたわらより口を挟めり。
現代語訳侯爵もまた、そばから口をはさんだ。
原文「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか」
現代語訳「あまり無理をおっしゃるなら、お嬢ちゃんを連れてきて見せるがいいな。早くよくならないで、どうするものか」
原文「はい」
現代語訳「はい」
原文「それでは御得心でございますか」
現代語訳「それでは、ご承知くださいますか」
原文腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭を掉りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、
現代語訳侍女はその間に取りなした。夫人は重そうな頭を横に振った。看護婦の一人が優しい声で、
原文「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
現代語訳「どうして、そんなにお嫌がりになるのです。ちっとも嫌なものではございませんよ。うとうとなさったら、すぐに済んでしまいます」
原文このとき夫人の眉は動き、口は曲みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を睜きて、
現代語訳このとき夫人の眉が動き、口がゆがんで、一瞬、苦痛に耐えられないような表情になった。目を半ば見開いて、
原文「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を謂うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よしてください」
現代語訳「そんなに無理に勧めるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密があるのです。麻酔薬はうわごとを言うと聞きますから、それが怖くてなりません。どうぞもう、眠らずに治療ができないのなら、もうもう治らなくてもいい、やめてください」
原文聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。
現代語訳聞くところによれば、伯爵夫人は、心の中の秘密を夢うつつのうちに人に漏らしてしまうことを恐れて、命をかけてそれを守ろうとしているのである。夫たる者が、これを聞いてどんな気持ちだろう。この言葉がもし普段のときに言われたのなら、必ずひと騒動を引き起こしたに違いない。しかし、病人に対して看護する立場にある者は、何事も問わずに済ませなければならない。しかも、自分の口から、秘密があって人に聞かせることはできないと、きっぱりと言い出した夫人の胸の内を思えば。
原文伯爵は温乎として、
現代語訳伯爵は穏やかに、
原文「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
現代語訳「わしにも聞かせられないことなのか。え、お前」
原文「はい。だれにも聞かすことはなりません」
現代語訳「はい。誰にも聞かせることはできません」
原文夫人は決然たるものありき。
現代語訳夫人の態度は、きっぱりとしていた。
原文「何も痲酔剤を嗅いだからって、譫言を謂うという、極まったこともなさそうじゃの」
現代語訳「何も、麻酔薬をかいだからといって、うわごとを言うと決まったわけでもなさそうじゃないか」
原文「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
現代語訳「いいえ、これほど思いつめていれば、きっと言うに違いありません」
原文「そんな、また、無理を謂う」
現代語訳「そんな、また無理を言う」
原文「もう、御免くださいまし」
現代語訳「もう、お許しくださいまし」
原文投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
現代語訳投げ捨てるようにそう言いながら、伯爵夫人は寝返りを打って横を向こうとしたが、病んだ体は思うようにならず、歯を食いしばる音が聞こえた。
原文ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せしが、いまやまた自若となりたり。
現代語訳そのために顔色を変えなかったのは、ただあの医学士一人だけだった。彼はさっき、どうしたわけか一度は平静を失ったが、今はまた落ち着き払っていた。
原文侯爵は渋面造りて、
現代語訳侯爵はしかめっ面をして、
原文「貴船、こりゃなんでも姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児のかわいさには我折れよう」
現代語訳「貴船、これはどうしてもお嬢ちゃんを連れてきて見せることだな。どんなに強情でも、子どものかわいさには折れるだろう」
原文伯爵は頷きて、
現代語訳伯爵はうなずいて、
原文「これ、綾」
現代語訳「これ、綾」
原文「は」と腰元は振り返る。
現代語訳「はい」と侍女は振り返る。
原文「何を、姫を連れて来い」
現代語訳「ほら、お嬢を連れてこい」
原文夫人は堪らず遮りて、
現代語訳夫人はたまらず、さえぎって、
原文「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
現代語訳「綾、連れてこなくていい。どうして、眠らなければ治療はできないの」
原文看護婦は窮したる微笑を含みて、
現代語訳看護婦は困ったような笑みを浮かべて、
原文「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」
現代語訳「お胸を少し切りますので、お動きになると危険でございます」
原文「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
現代語訳「なに、私はじっとしている。動きはしないから、切っておくれ」
原文予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
現代語訳私はそのあまりの無邪気さに、思わず身の毛がよだつのを抑えられなかった。おそらく今日の切開手術は、目を開けて見ていられる者などいないだろうと思っていたのだから。
原文看護婦はまた謂えり。
現代語訳看護婦はまた言った。
原文「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」
現代語訳「それは奥様、いくら何でも少しは痛みましょうから。爪をお切りになるのとは違いますよ」
原文夫人はここにおいてぱっちりと眼を睜けり。気もたしかになりけん、声は凛として、
現代語訳夫人はここで、ぱっちりと目を開いた。意識もはっきりしたのだろう、声は凛として、
原文「刀を取る先生は、高峰様だろうね!」
現代語訳「メスを取る先生は、高峰様でしょうね!」
原文「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
現代語訳「はい、外科の科長です。いくら高峰様でも、痛くないようにお切りすることはできません」
原文「いいよ、痛かあないよ」
現代語訳「いいよ、痛くはないよ」
原文「夫人、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
現代語訳「奥様、あなたのご病気は、そんな手軽なものではありません。肉をそいで、骨を削るのです。少しの間ご辛抱なさい」
原文臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
現代語訳立ち会いの医学博士が、このとき初めてそう言った。これはとても、骨を削る治療に平然と耐えたという三国志の豪傑・関羽でもなければ、耐えられることではない。ところが夫人は驚いた様子もない。
原文「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
現代語訳「そのことは存じております。でも、少しもかまいません」
原文「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
現代語訳「あまりに重い病気なので、どうかしてしまったのだと思われる」
原文と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
現代語訳と伯爵は悲しげだった。侯爵がそばから、
原文「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
現代語訳「ともかく、今日はまあ見合わせることにしたらどうだろう。後でゆっくり言い聞かせるのがよかろう」
原文伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
現代語訳伯爵がまったく異議を唱えず、皆もこれに同意しようとするのを見て、あの医学博士がさえぎった。
原文「一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑しておらるるから埒あかん。感情をとやかくいうのは姑息です。看護婦ちょっとお押え申せ」
現代語訳「一時でも遅れたら、取り返しがつきません。だいたい、あなた方は病気を軽く見ておられるから、らちがあかないのです。感情をとやかく言うのはその場しのぎです。看護婦、ちょっとお押さえ申し上げろ」
原文いと厳かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
現代語訳きわめて厳しい命令のもと、五人の看護婦はばらばらと夫人を取り囲み、その手と足とを押さえようとした。彼女たちは服従することを自分の責任としている。ただ医師の命令に従いさえすればよく、ほかの人の感情を顧みる必要はないのである。
原文「綾! 来ておくれ。あれ!」
現代語訳「綾! 来ておくれ。ああ!」
原文と夫人は絶え入る呼吸にて、腰元を呼びたまえば、慌てて看護婦を遮りて、
現代語訳と、夫人が息も絶え絶えに侍女をお呼びになると、侍女は慌てて看護婦たちをさえぎって、
原文「まあ、ちょっと待ってください。夫人、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
現代語訳「まあ、ちょっと待ってください。奥様、どうぞご辛抱なさって」と、優しい侍女はおろおろ声で言った。
原文夫人の面は蒼然として、
現代語訳夫人の顔は真っ青になって、
原文「どうしても肯きませんか。それじゃ全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
現代語訳「どうしても聞き入れてくれないのですか。それなら、治っても私は死んでしまいます。いいから、このまま手術をなさいと言っているのに」
原文と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋を少し寛げつつ、玉のごとき胸部を顕わし、
現代語訳と、真っ白で細い手を動かし、やっとのことで襟元を少しくつろげて、玉のように美しい胸をあらわにし、
原文「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
現代語訳「さあ、殺されても痛くはない。少しも動きはしないから、大丈夫だよ。切ってもいい」
原文決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑み、高き咳をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、
現代語訳きっぱりと言い放ったその言葉と顔つきは、どちらも動かしがたいものだった。さすがは高貴な身分の方だけあって、その威厳はあたりを圧し、部屋じゅうの者が一斉に声をのみ、咳払い一つ漏らさず静まり返った。その瞬間、さっきから少しも身動きせず、冷えた灰のように見えていた高峰が、軽く身を起こして椅子を離れ、
原文「看護婦、メスを」
現代語訳「看護婦、メスを」
原文「ええ」と看護婦の一人は、目を睜りて猶予えり。一同斉しく愕然として、医学士の面を瞻るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
現代語訳「ええ」と看護婦の一人は目を見張ってためらった。一同がそろって愕然として医学士の顔を見つめたとき、別の一人の看護婦が少し震えながら、消毒したメスを取って高峰に渡した。
原文医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
現代語訳医学士はそれを受け取ると、そのまま軽い靴音で歩を進め、すっと手術台に近づいた。
原文看護婦はおどおどしながら、
現代語訳看護婦はおどおどしながら、
原文「先生、このままでいいんですか」
現代語訳「先生、このままでよろしいのですか」
原文「ああ、いいだろう」
現代語訳「ああ、いいだろう」
原文「じゃあ、お押え申しましょう」
現代語訳「では、お押さえいたしましょう」
原文医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留め、
現代語訳医学士はちょっと手を挙げて、軽くそれを止め、
原文「なに、それにも及ぶまい」
現代語訳「なに、それにも及ぶまい」
原文謂う時疾くその手はすでに病者の胸を掻き開けたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
現代語訳そう言うが早いか、その手はもう患者の胸を開いていた。夫人は両手を肩の上で組んだまま、身動き一つしない。
原文かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
現代語訳そのとき医学士は、誓うように、深く重々しく厳かな声で、
原文「夫人、責任を負って手術します」
現代語訳「奥様、責任を持って手術いたします」
原文ときに高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
現代語訳このときの高峰の姿は、一種神聖で侵しがたい、ただならぬものであった。
原文「どうぞ」と一言答えたる、夫人が蒼白なる両の頬に刷けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。
現代語訳「どうぞ」と一言答えた夫人の真っ青な両頬に、はけで刷いたような赤みがさした。夫人は高峰をじっと見つめたまま、胸に迫るナイフにも目を閉じようとはしなかった。
原文と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
現代語訳と見る間に、雪の中に寒紅梅が咲いたように、血が胸からすっと流れて、さっと白衣を染めた。それとともに、夫人の顔は元のように真っ青になったが、はたして平然として、足の指さえ動かさなかった。
原文ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、あるいは首を低るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
現代語訳ここに至るまで、医学士の動きは逃げるうさぎのように素早く、少しの間も置かずに伯爵夫人の胸を切り開いたので、一同はもちろん、あの医学博士に至るまで、口をはさむすきさえなかった。しかし、ここに至って、震える者、顔を覆う者、背を向ける者、あるいはうなだれる者がいた。私などは我を忘れて、心臓まで凍りつきそうになった。
原文三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
現代語訳三秒にして、彼の手術は早くも最も大事なところへと進み、メスが骨に達したかと思われたとき、
原文「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手をしかと取り縋りぬ。
現代語訳「あ」と、心の底から絞り出すような声を上げて、二十日このかた寝返りさえ打てないと聞いていた夫人が、突然、機械仕掛けのように上半身を跳ね起こし、メスを持った高峰の右腕に、両手でしっかりとすがりついた。
原文「痛みますか」
現代語訳「痛みますか」
原文「いいえ、あなただから、あなただから」
現代語訳「いいえ、あなただから、あなただから」
原文かく言い懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極まりなき最後の眼に、国手をじっと瞻りて、
現代語訳そう言いかけて、伯爵夫人はがっくりとあお向けになり、この上なく凄絶で冷たい最期のまなざしで、名医をじっと見つめて、
原文「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」
現代語訳「でも、あなたは、あなたは、私を知らないでしょう!」
原文謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、
現代語訳そう言うが早いか、高峰が手にしたメスに片手を添えて、乳房の下深くへ掻き切った。医学士は真っ青になって震えながら、
原文「忘れません」
現代語訳「忘れません」
原文その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣の色変わりたり。
現代語訳その声、その息づかい、その姿。その声、その息づかい、その姿。伯爵夫人はうれしそうに、ひどくあどけないほほえみを浮かべて、高峰の手から手を離し、ばったりと枕に倒れたかと見えると、唇の色が変わった。
原文そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
現代語訳そのときの二人の様子は、まるで二人のまわりには、天もなく、地もなく、世間もなく、まったく誰もいないかのようだった。
下
原文数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞りて、咲き揃いたる藤を見つ。
現代語訳数えてみれば、もう九年前のことである。高峰はそのころ、まだ医科大学の学生だった。ある日、私は彼と一緒に小石川の植物園を散歩した。五月五日、つつじの花が盛りだった。彼と手を取り合って、かぐわしい草花の間を出たり入ったりしながら、園内の公園の池をめぐって、咲きそろった藤の花を見た。
原文歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
現代語訳向きを変えて、向こうのつつじの丘に登ろうと、池に沿って歩いていたとき、向こうからやって来る見物の一団があった。
原文一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
現代語訳洋服姿でシルクハットをかぶったひげ面の男が先頭に立ち、三人の女性を中に囲んで、後ろからも同じような男がついて来た。彼らは貴族に仕える御者(お供の者)たちだった。中の三人の女性はそろって深張りの日傘を差しかざし、裾さばきの音もさわやかに、するすると練り歩いて来た。そしてすれ違いざま、高峰は思わず後ろを振り返った。
原文「見たか」
現代語訳「見たか」
原文高峰は頷きぬ。「むむ」
現代語訳高峰はうなずいた。「うむ」
原文かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
現代語訳こうして丘に登って、つつじを見た。つつじは美しかった。けれども、ただ赤いだけだった。
原文かたわらのベンチに腰懸けたる、商人体の壮者あり。
現代語訳そばのベンチに、商人風の若い男たちが腰かけていた。
原文「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
現代語訳「吉さん、今日はいいことをしたなあ」
原文「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」
現代語訳「そうだね。たまにはお前の言うことを聞くのもいいもんだ。浅草へ行って、ここへ来なかったら、拝めやしなかったっけ」
原文「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
現代語訳「何しろ、三人ともそろって美人ときた。どれが桃やら桜やらだ」
原文「一人は丸髷じゃあないか」
現代語訳「一人は丸髷(既婚の女性の髪型)じゃないか」
原文「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」
現代語訳「どのみち、こっちに縁談が回ってくるわけじゃなし、丸髷でも束髪でも、何でもいい」
原文「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう」
現代語訳「ところでだ、あの様子なら、ぜひ高島田と来るところを、銀杏返しで出てきたのはどういうつもりだろう」
原文「銀杏、合点がいかぬかい」
現代語訳「銀杏返しが合点がいかないのかい」
原文「ええ、わりい洒落だ」
現代語訳「ええ、下手な洒落だ」
原文「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」
現代語訳「なんでも、高貴な方々がお忍びで、目立たないようにという腹づもりなんだ。ね、ほら、真ん中のお方がひときわ美しく際立っていたろう。もう一人のほうは影武者というわけさ」
原文「そこでお召し物はなんと踏んだ」
現代語訳「そこで、お召し物は何と見た」
原文「藤色と踏んだよ」
現代語訳「藤色と見たよ」
原文「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下のようでもないじゃないか」
現代語訳「え、藤色とだけじゃ、話がまとまらないぜ。お前らしくもないじゃないか」
原文「眩くってうなだれたね、おのずと天窓が上がらなかった」
現代語訳「まぶしくて、うつむいてしまったのさ。自然と頭が上がらなかった」
原文「そこで帯から下へ目をつけたろう」
現代語訳「それで、帯から下に目をつけたんだろう」
原文「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」
現代語訳「ばかを言いなさんな、もったいない。見たのか見なかったのかも分からないほどの間だったよ。ああ、名残惜しい」
原文「あのまた、歩行ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄はずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上になったんだな。どうして下界のやつばらが真似ようたってできるものか」
現代語訳「あの、また歩きぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっと、こう、霞に乗って行くようだったっけ。裾さばきとか褄はずれとかいうものを、なるほどと思って見たのは今日が初めてだ。どうも、お育ちがらというのはまた格別違ったもんだ。ありゃもう、生まれながらに雲の上の人なんだな。どうして下界の連中がまねしようったって、できるものか」
原文「ひどくいうな」
現代語訳「ひどく言うな」
原文「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓を三年が間、金毘羅様に断ったというもんだ。ところが、なんのこたあない。肌守りを懸けて、夜中に土堤を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵か、蛆が蠢めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
現代語訳「本当のことだがね、俺はほら、知ってのとおり、吉原通いを三年の間断つと、金毘羅様に誓ったっていうもんだ。ところが何のことはない。お守りを肌身につけたまま、夜中に吉原への土手を通っていたじゃないか。罰が当たらないのが不思議なくらいさ。もうもう、今日という今日は心を入れ替えた。あんな醜い女どもがどうしたっていうんだ。見なさい、ほらほら、ちらほらとそこいらに赤い着物がちらつくが、どうだ。まるで、ほら、ごみか、うじ虫がうごめいているように見えるじゃないか。ばかばかしい」
原文「これはきびしいね」
現代語訳「これは手厳しいね」
原文「串戯じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘で立ってるところは、憚りながらこれ人間の女だ。しかも女の新造だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆れらい」
現代語訳「冗談じゃない。あれを見な。やっぱりちゃんと手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しになって、同じような洋傘を差して立っているところは、はばかりながら、これでも人間の女だ。しかも若い女だ。若い女には違いないが、今拝んだお方と比べてどうだい。まるでくすぶって、何と言っていいか、汚れきっていやがる。あれでも同じ女だとさ。へん、聞いてあきれらあ」
原文「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」
現代語訳「おやおや、どうした、大変なことを言い出したぜ。しかし、まったくだよ。私もさ、今まではこう、ちょっとした女を見ると、つい、その何だ。一緒に歩くお前にも、ずいぶん迷惑をかけたっけが、今のを見てからは、もうもう胸がすっきりした。何だかせいせいする。これからは女とはふっつり縁を切るよ」
原文「それじゃあ生涯ありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様が、言いそうもないからね」
現代語訳「それじゃあ、一生女にありつけないぜ。あのお姫様が『源吉とやら、わらわは……』なんて言ってくれそうにもないからね」
原文「罰があたらあ、あてこともない」
現代語訳「罰が当たらあ、とんでもない」
原文「でも、あなたやあ、ときたらどうする」
現代語訳「でも、『あなたや……』と来たら、どうする」
原文「正直なところ、わっしは遁げるよ」
現代語訳「正直なところ、俺は逃げるよ」
原文「足下もか」
現代語訳「お前もか」
原文「え、君は」
現代語訳「え、君は」
原文「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらく言途絶えたり。
現代語訳「私も逃げるよ」と二人は目を見合わせた。しばらく言葉が途切れた。
原文「高峰、ちっと歩こうか」
現代語訳「高峰、ちょっと歩こうか」
原文予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼を離れしとき、高峰はさも感じたる面色にて、
現代語訳私は高峰と一緒に立ち上がり、あの若者たちから遠く離れたとき、高峰はいかにも感じ入った顔つきで、
原文「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
現代語訳「ああ、本当の美が人の心を動かすのは、あのとおりさ。君はお手のものだ、勉強したまえ」
原文予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと数百歩、あの樟の大樹の鬱蓊たる木の下蔭の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。
現代語訳私は画家であるから、心を動かされた。数百歩歩いたところで、あの楠の大木がこんもりと茂った木陰の、少し薄暗いあたりを行く藤色の着物の端を、遠くからちらりと見た。
原文園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。
現代語訳植物園を出ると、背が高く肥えた馬が二頭立っていて、すりガラスのはまった馬車のそばで、三人の馬丁が休んでいた。その後九年がたって、病院でのあの出来事が起こるまで、高峰はあの女性のことについて、私にさえ一言も語らなかった。けれども、年齢からいっても地位からいっても、当然妻を迎えていなければならない身でありながら、高峰には家を守る夫人がおらず、しかも彼は学生時代よりも、いっそう品行を慎んでいたのである。私は多くを語るまい。
原文青山の墓地と、谷中の墓地と所こそは変わりたれ、同一日に前後して相逝けり。
現代語訳青山の墓地と谷中の墓地と、場所こそ違っていたが、二人は同じ日に、相次いでこの世を去った。
原文語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。
現代語訳世の宗教家たちに申し上げたい。この二人は罪があるから、天国へ行くことができないというのだろうか。